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No.34 カロン, F
(
CARON, Francois
)
「
17世紀の地図中で最も奇妙でかつ奇怪なもの
日本国の位置を示す完全な地図
(The most eurious and bizarre of 17th Century maps
Perfeckte Kaert vande Gelegenheit des Landts van IAPAN)
」
37.5×24(cm)
1661
【解説】:
この奇妙で例外的に風変わりな日本地図は、1661年ハーグで出版されたカロンの日本叙述のオランダ語初版に出ている。また、最初のドイツ語版は1663年に、またその後英語版も数版にわたり1670年代まで刊行された。
カロン(1600-1674年)は、17世紀初頭における東インド会社で最も経験を積んだ日本学の大家の一人であった。カロンは1619年から1643年の間、平戸と出島のオランダ在外商館に居留して働き、1639年からは出島の「長官」を勤めた。1936年、VOC通商長官フィリップルカスのために、この本の基礎となるものを作成していた。
この地図は、日本の最も奇妙な17世紀の地図製作の記録で、諸島の輪郭は非常に様式化され不正確である。中国と朝鮮の海岸は、(原文脱落)本州とアジア大陸をつなぐ狭い地峡は「蝦夷地」と呼ばれた。地図は多数の航程線の十文字形交差があり、怪獣と3艘のオランダ船で装飾されている。
これは非常に奇妙で珍しい地図で、また17世紀オランダ人の日本に関する大家の一人によって、本に発表されるというのは、いっそう奇怪である
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No.35 ローン, J
(
VAN LOON, Johannes
)
「
日本への北東航路に対するオランダ人の信念
日本からノヴァヤゼムリャ島に至るアジアの北東沿岸
(The Dutch belief in a north-East Passage to Japan
Noordoost Cust van ASIA van JAPAN tot NOVA ZEMLA...)
」
54×43(cm)
(1661)1666
【解説】:
北東アジアがノヴァヤゼムリャ島から日本へ広がっている珍しい海図は、あまり知られていないオランダ17世紀、海図製作者の一人であるJ・ローンの手になるものである。この版は1666年に、ローン原版を購入したJ・ウェスベルゲンの会社で、表題にウェスベルゲンの刻印を加えて発行された。この地図帳は「明るい光の北斗星」と題して、初めて1661年に刊行された。
この地図は、オランダ人の発見したノヴァヤゼムリャ島を明確に示して、アジアの奇妙な北部海岸線を図示している。東海岸は朝鮮をでこぼこのある半島として図示している。日本についていえば、主な島である本州はマルティーニの輪郭に依っており、蝦夷、スターテン島、および会社の土地は、デ・フリースの1643年の海図を踏襲したヤンソンの1659年の見本に依拠している。装飾的な表題の花枠は、裸の子供たちに囲まれて右上にある。マイルの縮尺は、これも陽気に戯れた裸の子どもたちに囲まれている。
この時代の多数の海図と同じように、これはノヴァヤゼムリャ経由で北極ヨーロッパから東洋ヘの北東航路が可能であるとの信頼を引き続いて与えた。しかし類似の海図と異なり、アジア大陸の東部のマルコ・ポーロのおとぎの「キャセイ」については触れていないが、この後の時代でさえなお、キャセイとのVOCの交易の機会があるのではないかと信じられていたのである。
希少でかつ珍しい海図である。
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No.36 カロン, F
(
CARON, Francois
)
「
カロンの奇妙な日本地図のドイツ語版
特別の機会のために用意された正しい航海用の海図...日本
(A German edition of Caron's bizarre map of Japan
Dierechte See-karte von der Gelegenheit... Japan)
」
22.5×14.5(cm)
1663
【解説】:
この奇妙で極めて風変わりな日本地図は、1663年のカロンとJ・ショウテンの「強大な日本王国とシャム、朝鮮に関する真実の記録」ドイツ語版に出ている。この地図は、1661年ハーグで出版されたカロンの作品の初版が添付されたより大判のオランダ版からのものである。
1663年のドイツ語初版は、その後数版が1670年代まで出た。
カロン(1600-1674年)は、17世紀前半のVOCで最も経験を積んだ日本学の大家の一人であった。カロンは1619年から1643年の間、平戸と出島のオランダ在外商館に居留して働き、1639年からは出島の「長官」を勤めた。1936年、VOC通商長官P・ルカスのために、この本の基礎となるものを作成していた。
この地図は、1661年の輪郭をほとんど正確に踏襲していて、諸島の輪郭は非常に様式化され不正確である。本州はまさしく「蝦夷地」と呼ばれた狭い地峡でアジア大陸につながっていることを図示している。諸島の地図製作法はかなり様式化されているが、この版は日本の主な都市の名前を付して内陸の詳細については充実している。
しかしながら、これは非常に奇妙で珍しい地図で、日本に関する大家の一人である17世紀オランダ商人による本に、これが出典されるのは、いっそう奇怪なことである。
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No.37 グース, P
(
GOOS, Pieter
)
「
日本からノヴァヤゼムリャ島に至るアジアの北東沿岸
(Noordoost Cust van ASIA van JAPAN tot NOVA ZEMLA)
」
54×44(cm)
1666
【解説】:
グースの卓越したアジアの北東海岸の海図は、1666年アムステルダムで彼の有名な「海図帳」に発表された。
地図の最も注目すべき特徴は、本州の北へ様々な島を詳細に描写したことで、1643年のデ・フリースの航海中に作成された重要な海図についで、この地域の印刷された描写の中では最初のものとなる。
デ・フリースはこれらの諸島について詳細な情報を提供した最初の西洋人であるが、またその地図製作上の誤りは、その後1世紀半に及んで大きな混乱を起こす原因となった。デ・フリースは北海道の南部の海岸を地図に描くことができたが、首尾よく南千島諸島に到達して、エトロフをスターテン島と呼んで海図を作った。しかしウルップの海岸を大きな新しい広大な土地の始まりと解釈して、それをオランダ東インド会社VOCに敬意を表して、会社の土地と呼んだ。
デ・フリースの探検目標の一つは、マルコ・ポーロのキャセイの存在を検証するためで、当時なお今日の満州の海岸に存在すると信じられていて、この地図に、グースが図示したものである。
ローン、デ・ウィットおよびコイレンによる類似の海図と同じように、オランダ人はノヴァヤゼムリャ経由で、北極ヨーロッパから日本ヘの北東航路が開ける可能性を、この地図に図示されているように信じ続けていた。
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No.38 ブローム, R
(
BLOME, Richard
)
「
中華帝国...隣接日本諸島...の新地図
(A New map of Empire of CHINA... the adjacent Isles of Niphon...)
」
38×34(cm)
1669
【解説】:
この珍しく馴染みの少ないイギリス地図はブロームによってロンドンで出版されたが、おそらく彫りは有名なW・ホラーが1670年の彼の地図帳「世界の記述」のために彫ったものであろう。
ブローム(1660-1705年誤記)は、伝えられる所によれば他の地図製作者の剰窃、その最たるものが「スピーズ地図の要約」で、J・スピーズの郡地図帳を複写したことで、地図製作者の間では不当に評判が悪かった。しかしこの点に関しては、そのやましさは同時代の同業者としては人並みの行為である。
この地図は中国、朝觧および北海道の南端を描いた日本を図示している。地図の輪郭は特に日本については、非常にいりくんだ海岸線で、また瀬戸内海は琵琶湖まで伸びて、サンソンから直接に取っている。
右下の魅力的な標題は、盾形の紋章でかこまれて、ケント州ノルトンのT・ペイトン卿閣下に献呈されている。この装飾様式は17世紀のイギリスで地図製作の企画の資金集めの手段として普及していて、またブロームの多くの地図帳には、かつてのスポンサーや後援者が交替すると、いれ換えの献辞が糊付けされているのが見えるが、これはそれほど珍しいことではない。
魅力的で非常に珍しいイギリスの地図である。
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No.39 タヴェルニエ, J. B
(
TAVERNIER, Jean Baptiste
)
「
日本諸島の地図...
(CARTE DES ISLES DU IAPON...)
」
31×21(cm)
1679
【解説】:
この風変わりな地図は、初めて1679年にパリで出版されたタヴェルニエの「旅行記集」の小型4折判に現われた。
タヴェルニエ(1605-1689年)は、1669年に貴族の称号を受け、またパリの有力な地理製作者M・タヴェルニエの甥であるが、旅行家として有名であった。彼の記述は中東およびペルシャ湾でダイアモンド等の宝石商として従事していたことを回想している。彼はまたトンキン王国(ヴェトナム)について記述をした最初の一人で、詳細な宮廷の儀式の記述を、魅力的に彫られた地図および版画とともに提供した。
彼の日本の記述は、現地を訪れたことがなく他の作家の記述に基づいたもので、地図は、幾分精巧にできてはいるが、カルディムとブリエの湾入の多い輪郭を厳密に複写した。おそらくこの地図の最も面白い特徴は、オランダ人が長崎の商館から江戸へ向かう際たどったルートについての記述であり、そのルートに沿ってタヴェルニエの様々な土地と特徴の詳細な注釈がある。
風変わりで珍しい地図である。
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No.40 タヴェルニエ, J. B
(
TAVERNIER, Jean Baptiste
)
「
日本で最も美しい女性を突き止め紹介している 1679年
日本諸島の地図...
(The most beautiful women in Japan located: 1679
CARTE DES ISLES DU IAPON...)
」
76.5×51.5(cm)
1679
【解説】:
この珍しい大判の地図は、初めて1679年にパリで出版されたタヴェルニエの「旅行記集」の2折判に出た。
タヴェルニエ(1605-1689年)は、1669年に貴族の称号を受け、またパリの有力な地理製作者M・タヴェルニエの甥であるが、旅行家として有名であった。彼の記述は中東およびペルシャ湾でダイアモンド等の宝石商として従事していたことを回想している。彼はまたトンキン王国(ヴェトナム)について記述をした最初の一人で、詳細な宮廷の儀式の記述を、魅力的に彫られた地図および版画とともに提供した。
彼の日本の記述は、訪問したことがなかったので、他の作家の記述に基づいたもので、地図は、幾分精巧にできてはいるが、カルディムとブリエの湾入のある輪郭を厳密に複写した。おそらくこの地図の最も面白い特徴は、オランダ人が長崎の商館から江戸参府の際たどったルートについての記述であり、そのルートに沿ってタヴェルニエの様々な土地と特徴の詳細な注釈があり、岡崎の街のどこで日本一の美人が捜し出せるかという話もある。
この地図の縮小判はラテン語、ドイツ語、英語文で彼の後の作品の出版物の中に見出される。
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No.41 モルデン, R
(
MORDEN, Robert
)
「「日本および蝦夷地方の最新図」
(JAPONAE ac TERRAE IESSONIS Novissima Descriptio Robt Morden)
」
12.5×10.5(cm)
1680
【解説】:
風変わりな英語版のミニアチュア地図は、初めて1680年にロンドンで出されたモルデンの魅力的なミニアチュア地図帳「修正版地理」に発表された。
モルデン(1703年死去)は、その精緻なミニアチュアのイギリス郡地図のトランプや1695年以降W・カムデンの「ブリタニア」版に納められたイギリスの郡の小型2折判地図の精巧なシリーズ物で最も良く知られている。
1655年のブラウ-マルティーニ地図を見本として、モルデンは、朝鮮半島から北へ湾曲した海岸線を持つ蝦夷地が、東アジア半島であることを図示した多くの17世紀の地図製作者の一人である。彼は、スターテン島(イツルップ)のある千島諸島のデ・フリースの輪郭に固執し、またデ・フリースの海峡をしるしている。
本州の7地方の区分が、右下の文字記号で示されている。タイトルは上中央に、魅力ある渦巻きの飾り枠の中に出ている。
魅力的で珍しい17世紀後期の英語版ミニアチュアである。
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No.42 タヴェルニエ, J. B
(
TAVERNIER, Jean Baptiste
)
「
日本諸島地図(挿入図) トンキン地図
(A MAP OF THE ISLES OF IAPON (inset) MAP OF TUNQUIN)
」
52×36(cm)
1679
【解説】:
タヴェルニエの英語版に現われたこの珍しい地図は、初めて1680年にロンドンで、E・エヴェラルおよびM・ピットによって、「J・B・タヴェルニエの物語集」と題して出版された。
地図製作上また地理的詳細は、ほとんどの点でフランス地図と同一であるが、ここに、ピットは2枚の日本とトンキンの地図を、トンキンを地図の左上に挿入図として融合させている。ピットはまたこの地図の他の版に出ている注釈を省略している。
珍しく風変わりな英語版は、タヴェルニエの著作が広く人気があったことを示している。
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No.43 デ=ウィット, F
(
DE WIT, Frederick
)
「「...日本、中国図」
(MAGNAE TARTARIAE... IAPONIAE et CHINAE Nova Descriptio)
」
55.5×44(cm)
1680頃
【解説】:
デ・ウィットのタタール地域および東アジアの精巧な銅板の地図は、北シベリアから朝鮮、中国および日本ヘと広がっている。
特に北海道(えぞ)の興味深い記述で注目に値する。1643年のデ・フリースの見本にしたがって東沿岸のみが図示されていて、スターテン島の千島諸島および会社の土地が含まれている。日本そのものはサンソン、ブリエ、カルディムに依る初期フランス地図を思い起こさせる多くの湾入のある輪郭で図示されている。
天使の子どもに支えられた装飾的な垂れ幕のタイトル渦巻きは、右上に見える。
この地図は、1670年ころから1715年間にアムステルダムで出版された多数のデ・ウィット地図帳に見られ、またその後コヴェンスおよびモルティエによって、またC・ブラウンによってロンドンで発行された地図帳に見られる。この地図の多くは、いずれの場合も、表題の文字が異なって、わずかずつ異なった状態で見出される。
この版は、デ・ウィットのアムステルダム、カルヴェル通りの刻印が右下にある。
デ・フリースの重要な発見を永久に伝えるものとして、また北東航路の可能性に対しての信頼を与え続けた東アジアの重要な地図である。
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No.44 サンソン, N
(
SANSON, Nicolas
)
「「7地方と66地域に分けられた日本島」
(INSULARUM IAPONIAE in VII Partes & LXVI Regna Antiqua divisae Per N Sanson)
」
26.5×18(cm)
1680頃
【解説】:
この珍しい日本地図は、様式としては1650年のブリエの地図や1652年のサンソンのほぼ同じサイズの地図に非常に類似していて、ほとんどの標準となる参照作品はこの地図の地図帳の出典を記していないが、サンソンの小型4折判地図帳の17世紀末の版から取られているように見える。キャンベルは1705年頃のものとしているが、これではあまりに時期が後ではないかと思われる。
地図そのものは、精巧に彫られ、朝鮮の東海岸、3つの主な島、および北海道の最南端を図示している。66の地域と7地方が定められている。表題は左上に垂れ幕の飾り枠の中に見える。ドイツ、日本フランス、ポルトガルの縮尺が右下に見える。
珍しいカルディムを下敷きにした変形版で、1646年見本をサンソンが使用した最後のものとなる。
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No.45 デ=ウィット, F
(
DE WIT, Frederick
)
「
東インド諸島および周辺諸島図
(Orientaliora INDIARUM ORIENTALIUM cum insulis adjacentibus a Promontorio C. Comorin ad Iapan... (Title also in Dutch))
」
54×44(cm)
1680頃
【解説】:
この東インド諸島の精巧な海図は17世紀後半のオランダ海図地図帳に多数の類似した海図が制作されたもののひとつで、オランダ東インド会社の影響力と探検の広がりを示すものである。
この地図は、デ・ウィット(1630-1706年)により、アムステルダムで出版されたもので、1675年ころ初めて出版された彼の「航海地図帳」に見られる。
この地図は、インド南部およびセイロンからオーストラリア西部および北部まで、また全ての東インド諸島、北は日本まで及ぶアジア東部の海岸の地域を図示している。地図全体は北がページの左端を基点として記されている。地図は、タスマンの北西オーストラリア沿岸に沿った2回目の航海をはじめとする西および北オーストラリアにおける初期のオランダの発見を組み入れている。日本は、1655年のブラウーマルティーニモデルによって、3つの島しか図示されていない。
海図は4艘のガリオン船の挿絵、また左下の華麗な装飾的な表題枠の装飾は、扇子を持つ貴婦人、鳥かごの唄う鳥から、阿片を吸う召し使いや東洋の商人や上級官僚までの全ての画像を組み込んでいる。
装飾的な17世紀オランダ海図。
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No.46 コイレン, J
(
VAN KEULEN, Johannes
)
「
(Pascaarte vande Noord Oost cust van ASIA)
」
60×52(cm)
1681
【解説】:
1681年コイレンの「海図地図帳」に初めて発表された北東アジアの精巧な一般地図で、ノヴァヤゼムリャから日本と朝鮮に至る海岸を図示したものである。日本は1655年のマルティーニ輪郭に基づいており、湾入のある朝鮮やアジア大陸に繋がった珍しい蝦夷半島とともに図示されている。1643年のデ・フリースの海図に従って、スターテン島とそれより大きな会社の士地は、本州と北海道の北東に図示されている。
大ハーンが部下の戦士に囲まれた正装の座像と共に、素晴らしい装飾表題花枠は左下にある。
北極圏およびこれまで通過不可能であったノヴァヤゼムリャ経由でインド諸島ヘの北東航路の可能性の信頼を引き続き示している点で興味ある海図である。
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No.47 タヴェルニエ, J. B
(
TAVERNIER, Jean Baptiste
)
「
日本諸島図、長崎から宮廷のある江戸まで
(Delineatio Insularum Japonicarum in quibus designatur via terra marique quam sequentur Batavi ab urbe Nangasaqui ad urbem Jedo sedem Regiam...)
」
31.5×21.5(cm)
1681
【解説】:
この希少なラテン語文のタヴェルニエの日本地図は、1679年にパリ初版のタヴェルニエの「旅行記集」の、珍しい1681年ドイツ語のジュネーヴ版に見られるものである。
タヴェルニエ(1605-1689年)は、1669年に貴族の称号を受け、またパリの有力な地理製作者M・タヴェルニエの甥であるが、旅行者として有名であった。彼の記述は中東およびペルシャ湾でダイアモンド等の宝石商として従事していたことを回想している。彼はまたトンキン王国(ヴェトナム)についての記述をした最初の一人で、詳細な宮廷の儀式の記述を、魅力的に彫られた地図および版画とともに提供した。
彼の日本の記述は、訪問したことがないため、他の作家の記述に基づいたもので、地図は、幾分精巧にできてはいるが、カルディムとブリエの湾入のある輪郭を厳密に複写した。おそらくこの地図の最も面白い特徴は、オランダ人が長崎の商館から江戸ヘ向かう際たどったルートについての記述であり、そのルートに沿って様々な土地と特徴の詳細な注釈がある。
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No.48 タヴェルニエ, J. B
(
TAVERNIER, Jean Baptiste
)
「
日本諸島の海図
(CHARTE DER IAPONISCHEN INSELN...)
」
31×21(cm)
1681
【解説】:
この風変わりな地図は、1681年にドイツのニュルンベルクで出版されたタヴェルニエ「旅行記集」ドイツ語版の小型2折判に現われた。
タヴェルニエ(1605-1689年)は、1669年に貴族の称号を受け、またパリの有力な地理製作者M・タヴェルニエの甥であるが、有名な旅行者であった。彼の記述には、中東およびペルシャ湾でダイアモンド等の宝石販売に従事していたことを回想している。彼はまたトンキン王国(ヴェトナム)についての記述をした最初の一人で、詳細な宮廷の儀式の記述を、魅力的に彫られた地図および版画とともに提供した。
彼の日本の記述は、訪問したことがなかったので、他の作家の記述に基づいたもので、地図は、幾分より精巧にできてはいるが、カルディムとブリエのでこぼこのある輪郭を厳密に複写した。おそらくこの地図の最も面白い特徴は、オランダ人が長崎の商館から江戸ヘ向かう際たどったルートについての記述であり、そのルートに沿ってタヴェルニエの様々な士地と特徴の詳細な注釈がある。
多数の標準的文献や地図製作の参照文献にも記録されていない、この地図の珍しいドイツ語版である。
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No.49 マレ, A. M
(
MALLET, Alain Manesson
)
「
日本諸島
(ISLES DU JAPON)
」
10×14(cm)
1683
【解説】:
マレの「世界誌」に出てくる精巧なフランスのミニアチュア地図で、これは地図と世界中全ての地方の版画を合体させた珍しいミニアチュアの世界地図帳である。この地図帳は最初に1683年にパリで出たが、その後ドイツ語版が引き続き出された。
地図そのものはマルティーニとサンソンの輪郭を踏襲しているが、諸島の形は多少以前のものより丸みを帯びている。地図は3つの主な島と「蝦夷地」の南端を図示している。主要な町と都市は、地域の区切りなしに描かれている。魅力的な表題は二人のトランペットを吹く天使の子どもによって支えられた引き幕様式の旗の形として、中央下に見える。
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No.50 サンソン, N
(
SANSON, Nicolas
)
「
日本諸島
(LES ISLES DU JAPON)
」
24×18.5(cm)
1683
【解説】:
サンソン作品の後期の見本で、初版は1683年にパリで「新詳細アジア地図」と題したサンソンの小型4折判地図帳に出版された。
この地図は、はなはだしくいりくんだ海岸線のカルディムの1646年の日本地図を厳密に踏襲したサンソンの1650、1652年の地図とは、輪郭が非常に異なっている。
この地図は、A・デウィンターによって新たに彫られたがヤンソン、1652/59年の影響力のある地図の輪郭を踏襲している。明らかに島として図示された珍妙で珍しい三角形の朝鮮を借用しているが、しかし興味深いことに、北海道の輪郭は組み込んでいない。本州の北の陸地は「イエッソ、イェゾ、またはセッショ島または陸地」とされて、朝鮮から松花江の海峡まで広がっている。
この地図のオランダ語版は1683年にも出版されており、さらにハルマの1700年の地図帳に至るまで版を重ねている。この地図はまたクロッペンバークのメルカトール-ホンディウス複合版「小型地図帳」のH・デュ・ソーゼットの最終版のなかに変更無しに出ている。この地図帳は、17世紀になお利用可能な地図帳の小型の図版とサンソンのより最新の地図を組み合わせたものである。「携帯地図帳」と題したこの地図帳は1734-38年に出版された。
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No.51 サンソン, N
(
SANSON, Nicolas
)
「
日本諸島
(DE EYLANDEN VAN JAPAN)
」
24×18.5(cm)
1683
【解説】:
この魅力的な日本諸島の8折判地図は、1652年に初めて出版されたサンソンの重要なアジア地図帳のオランダ文の版として発行されている。
日本地図は1683年版の地図帳のために、デウィンターによって再刻されたが、これはその後1683年ユトレヒトでJ・リビリスによって出版されたオランダ語版「サンソン氏による世界地理および歴史」と題したものに、それ以降複写された。これとは別の版が、1700年アムステルダムで、F・ハルマの3巻本「一般世界誌」に引き続いて刊行されたが、おそらくこれが最も有名で、キャンベルはこの3巻本を、この地図の最初の版だと誤って判定している。
諸島の輪郭は、その多くをデ・フリースの1643年の探査に基づいたヤンソンの1659年の海図から引用している。それにもかかわらず、朝鮮はもっとずんぐりとした三角形の島として図示されている。本州と朝鮮の北にある全ての島は「イエッソ、ユエゾ、またはセッショ」とされているが、いまだそれが島か半島かは不確かであった。北海道の南部の非常に正確な輪郭を示したデ・フリースの輪郭とは少しも類似したととろがない。
この地図は、カルディムのはなはだしい鋸歯状の輪郭の諸島から多くを引用した輪郭であった、サンソンのそれ以前の1650、1652、1679年の地図とは興味ある対照をみせている。
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No.52 コロネリ, V
(
CORONELLI, Vincenzo
)
「
イタリア地図の最も装飾的なものの一つ
日本諸島と朝鮮半島図
(One of the most decorative of Italian maps
ISOLA DEL GIAPONE E PENINSOLA DI COREA...)
」
61×45.5(cm)
1692
【解説】:
17世紀末期の日本の最も魅力的な地図のひとつで、ヴェニス総督の地図製作者であったコロネリは、この地図を1692年、「世界地誌」のために作成した。これはまたコロネリのもっと良く知られている「ヴェネト州地図帳」にも見られる。
地図は、ほとんど正確にマルティーニ(1655年)の地図製作を踏襲しているが、湾入のある朝鮮南部と北海道を付け加え、北海道はコルネリによってアジアのタタール地方の一部にされている。中央の花冠に編まれた花の装飾的な楕円形の花枠には、地図をイエズス会のフォンテーヌ神父へ献呈しており、イエズス会教団のIHS十字架はその献辞の上に描かれている。こぎ手付き大型の平底荷船はモンタヌスから複写されているが、朝鮮と日本諸島のあいだの海に浮かべられ、コロネリは、この船と大坂から長崎まで航路の距離について詳細な注記をしている。
17世紀末期の非常に熟練したかつ華々しいイタリア地図製作者の一人による華麗な装飾的な地図である。
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No.53 ミュラー, J. U
(
MULLER, Johann Ulrich
)
「
(日本諸島)およびモルッカ諸島 (Insulae MOLUCCAE) の記述
((Niphon Ins) with text of Insulae MOLUCCAE)
」
7.5×6.5(cm)
1692
【解説】:
このまれな日本のミニアチュア地図は、デュヴァルのミニアチュア地図帳「世界地理」(仏)のドイツ語の複写で、「世界地理」と題して1692年ドイツのウルムで最初に出版された。
デュヴァルの地図と同じように、ミュラーはカルディムとブリエの湾入のある同じ輪郭を使用している。地図は、文章のページの中に挿入され、通常は同じページの地図の記述をしているが、このページの文章はモルッカ諸島の記述である。
この地図はミュラーによって、多くの異なった判型に、文章の異なった設定で出版された。また文章なしの版も、ドイツの地図製作者ボデネールによって記録されている。
非常に珍しいミニアチュアの作品である。
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