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No.93 ダンヴィル, J. B. B
(
D'ANVILLE, J.B.B.
)
「
ダンヴィルの非常に影響を及ぼしたアジア地図
中国...スマトラ島および日本諸島を含むアジア地図第2部。
(D'Anville's most influential map of Asia
SECONDE PARTIE DE LA CARTE D'ASIE CONTENANT LA CHINE... LES ISLES SUMATRA... ET DU JAPON...)
」
97×60(cm)
1752
【解説】:
この重要でまた影響を及ぼした地図は、1752年にパリで、ダンヴィルにより出版されたが、彼はおそらく18世紀のフランス地図製作者で最も影響を及ぼした1人であろう。
ダンヴィルのアジア地図製作ヘの興味は、トゥアルド、1735年の「中国地誌」の出版によって増大したが、ここには彼のデザインした中国の一部とその周辺地域が付いていた。これらの地図は後に彼の1737年の「新中国地図帳」に組み入れられた。この地図は、1655年のブラウ-マルティーニの「中国地図帳」以来、初めて中国およびその周辺地域の最新の情報を提供した。
2枚で構成された第2のアジア地図の東の一枚は、マレー半島から中国、朝鮮、日本および蝦夷島(北海道)まで広がってぃる。蝦夷の輪郭は、ここでは蝦夷が島と呼ばれ、何の情報もなく図示されていてやや不明確である。日本の3つの主な島は、レランドやケンペル等の東洋学者によって17世紀末および18世紀初頭に複製された時代遅れの不正確な日本の木版画から多くが描写された時代としては、やはり似たようなものである。
非常に重要でまた影響を及ぼした大判地図である。
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No.94 ベラン, J. N
(BELLIN, Jacques Nicolas)
「日本帝国地図(オランダ語の副題付き)日本帝国地図
(CARTE DE L'EMPIRE DU JAPON... (With Dutch subtitle) KAART VAN HET KEIZERRYK JAPAN...)」
31.5×21.5(cm)
(1752)1758
【解説】:
この日本の詳細地図は、ベランの1735年の地図を見本としており、初めてプレヴォの「旅行記集」に出たが、これは、1746年から1789年の間にパリで出版された網羅的な20巻本で、この中にベランの精緻な銅版地図を組み入れている。
この地図は日本とその都市を描いた作品の6枚のうちの一つである。
プレヴォの作品の人気は大きく、まもなくこの版はオランダ語、ドイツ語で、また遅れてデンマーク語でも、印刷された。この地図はプレヴォのオランダ版の「旅行記集」(オランダ語)と題した17巻に出ているが、1758年にアムステルダムで出版されたものである。
この地図は1752年の版とは、オランダ語の副題を別にすれば、ほとんど変更はない。珍しい版である。
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No.95 ベラン, J. N
(
BELLIN, Jacques Nicolas
)
「
日本帝国地図
ベラン氏の数次の外国旅行に基づく旅行記集のための
(KARTE VON DEM REICHE JAPON Zur Algemeine Geschichte der Reisen Von dem Hrn Bellin...)
」
30.5×21(cm)
1753
【解説】:
ベランの1752年の日本地図の珍しいドイツ版で、プレヴォの「旅行記集」1753年頃のライプチッヒでシュワーベによって出版されたドイツ版に発表された。
地図は1735年のベランの地図を踏襲し、かなり歪んで短縮された本州を図示しており、フランス人名前のいくつかはドイツ人に代えられている。ベランの地図と同じく、精巧なロココ風の楕円形花枠が左上に見える。
18世紀の日本のイメージで最も良く知られたものの一つの珍しい版である。
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No.96 ギブソン, J ― ボーエン, E
(
GIBSON, J. - BOWEN, E.
)
「
中国と日本(を含む)大タタールの北部
(The Northern Parts of Great Tartary (with) CHINA & JAPAN)
」
7×13.5(cm)1758
【解説】:
これはおそらくこのコレクションの中では最小の地図で、1758年ロンドンで、ギブソンとボーエンの12折判の「最小の地図帳」に発表されている。
1枚は2つの地図に分かれていて、東部ロシア地図がカスピ海からタタールまでの東部ロシア地図が上部に、中国と日本の小地図(6×6.5cm)が下にある。
地図はモルの初期のイギリス地図の輪郭を使用し、ずんぐりとした本州を図示し、また北海道(蝦夷地)はアジア大陸に続いているが、必ずしも明確ではない。
18世紀後半の最小のイギリス地図帳の一つからの珍しいまた魅力的なミニアチュアである。
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No.97 ベラン, J. N
(
BELLIN, Jacques Nicolas
)
「
日本諸島地図(オランダ語の副題付き)
日本諸島地図
(Carte des ISLES DU JAPON... (With Dutch subtitle) KAART van de EILANDEN van JAPAN...)
」
28.5×21(cm)
(1746)1758
【解説】:
この日本の詳細地図は、ベランの1735年の地図を見本としており、初めてプレヴォの「旅行記集」に出たが、これは、1746年から1789年の間にパリで出版された網羅的な20巻本で、この中にベランの精緻な銅版地図を組み入れている。
この地図は日本とその都市を描いた作品の6枚のうちの1枚である。プレヴォの作品の人気は大きく、まもなくこの版はオランダ語、ドイツ語で、また遅れてデンマーク語でも印刷された。この地図はプレヴオのオランダ版の「旅行記集」(オランダ語)と題した17巻に出ているが、1758年にアムステルダムで出版されたものである。
この地図は1746年の版と、オランダ語の副題とオランダ文の描写の追加を別にすれば、ほとんど変更はない。
珍しい版である。
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No.98 ドゥ=ヴォゴンディ, R
(
DE VAUGONDY, Robert
)
「
シベリアすなわちアジア(地域)ロシア、中国タタール国、エルーツ国、および日本諸国
(SIBERIE OU RUSSIE ASIATIQUE, TARTARIE CHINOISE, PAYS DES ELUTS ET ISLES DU JAPON...)
」
30.5×24(cm)
1760頃
【解説】:
この精巧な銅版地図は、およそ1760年頃ヴォゴンディのために、E・デュッシイが彫ったものである。
地図はノヴァヤゼムリャと中央アジアからカムチャッカ、北海道、日本、朝鮮まで広がっている。
日本の輪郭はヴォゴンディの1749年に発表された日本の小型地図に非常によく似ているが、日本の輪郭はダンヴィルを採用したものである。また興味深いのは、ヴォゴンディの1749年のミニアチュア地図の版の一つに似ていて、大きく広がった北海道が、その一部の海岸線とサハリンが連結されて北にある。デ・フリースのスターテン島は東の千島諸島の一つとして、またカムチャッカはさらに北にはっきりと図示されている。
この地図は、ロシアについては地誌的なまた地理上の詳細が盛り込まれており、これは主として18世紀の初期ピョートル大帝のヨーロッパ統一によって、多くの地図製作上の知識が生まれてきたことによる。
日本の北の地域については、なお混同した議論が引き続いているごとは、興味深い。
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No.99 ボンヌ, R
(
BONNE, Rigobert
)
「
中国地図帳からの、日本諸島を含む中国帝国。
(L'EMPIRE DE LA CHINE d'Apres l'Atlas Chinois, AVEC LES ISLES DU JAPON.)
」
44×31(cm)
1762
【解説】:
ボンヌの装飾的なフランス地図は、1762年パリで、J・ラットレによって出版されたが、これはダンヴィルの「中国地図帳」(1737年)に出た一般地図を忠実に見本としており、このことがタイトルに参照として付いている。
この地図は海南島から朝鮮までの中国全体と日本の3つの主な島を図示している。北海道の南部は、おかしな「小人の島」と共に図示されている。おそらくは、アイヌ民族のことを指しているであろう。全体の描写はかなり正確になったが、北部本州はなおかなり歪んで短縮されている。朝鮮も同じように、かなり大きく描かれている。
装飾的な花枠表題が右下にあり、孔雀、パラソル、横になってキセルを吸い、小鳥を持つた東洋の人物を組み入れている。
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No.100 ベラン, J. N
(
BELLIN, Jacques Nicolas
)
「
日本帝国地図
(CARTE DE L'EMPIRE DU JAPON)
」
31×21(cm)
(1763)1764
【解説】:
この地図は、ベランの1763年の5巻本「小型フランス地図帳」の第3巻および1764年「小型海図帳」の第3巻に出ている。この地図は、後者の地図帳からのもので、原版の右上隅にページ番号で区別されている。
表題の花枠の文字体裁、および彫られた原版がやや大きめであることを別にすれば、全ての点において、この地図はその範囲と内容がプレヴォの「旅行記集」に出た1752年の地図と同じである。唯一の大きな違いは、やや彫りが精緻な様式となり、海岸線がより明確に描かれているように見えることである。
見本とした1752年の地図より希少で、この魅力的な地図はベランの作品が引き続き影響力を持ち、人気を博していたことを示す。
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No.101 アンソン, G
(
ANSON, George
)
「
無題:北部フィリッピン、マリアナ諸島、および日本を描く。
(Untitled: Depicts the Northern Philippines, the Marianas and Japan.)
」
32×28(cm)
1763頃
【解説】:
アンソンの世界周航は、刊行物の記事として大当たりをした。探検の航海は1740年、6隻の船に2000人に近い乗組員で出発した。1744年に帰国したときは、たった1隻の船で乗組員の数は半分に減っていた。
アンソンの航海の第一目的は、太平洋沿岸地方に沿ってスペインの植民地領を襲撃し、略奪することであった。アンソンの最大の注目に値する成功の一つは1743年フィリッピン諸島のサマル島沖で、スペインの財宝を積んだガリオン船「XXXXXX」号の捕獲であった。
そのガリオン船は、メキシコのアカプルコ港から、フィリッピン諸島の間を結ぶ定期的な財宝を積んだ商船隊に属して、香辛料と磁器を銀で交易していた。ガリオン船のほとんどは、北太平洋の風と海流を利用し、北寄りの弧をたどってメキシコへ航路をとった。アンソンのガリオン船の捕獲で、商船団の使用した海図を入手し、初めてスペイン人が太平洋を横断するために使用した航路の詳細な情報を提供した。地図は、マニラからマリアナ諸島経由の往路の航路と、より南寄りのコースの復路の航路を示している。
18世紀半ばの最も人気のあった世界周航話の一つに使われた、重要で影響を及ぼした地図で、この地図は1763年頃のフランス版からのものである。
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No.102 ボルトン, S ― シール, R . W
(
BOLTON, S. - SEALE, R.W.
)
「
アジアの版画Ⅱ:日本、朝鮮、モンゴルおよび中国の一部
(ASIA Plate II: JAPAN, COREA, THE MONGHULS & part of CHINA...)
」
35×48(cm)
1766
【解説】:
この極東の一部を描いた地図は、S・ボルトンが作成し、18世紀中期のイギリスの一流彫工の一人、R・W・シールが彫った。
この地図は、1766年ロンドンで出版された、M・ポッスルスエイト??の「交易及び商業辞典」の中の1枚として出た。これはフランス地図製作者ダンヴィルの1750年代に作成した大判の地図から、英文との組み合わせ地図として組み入れたものである。ボルトンは、1752年のダンヴィルの大きな影響力を及ぼしたアジア地図の輪郭を使用したが、日本群島は北海道も3つの主な島も、明確に描かれた輪郭であった。
興味深いダンヴィルからの地図で、イギリスにおける彼の影響を示すものである。ダンヴィルの地図は、R・セイヤー、ローリー、ウィットル等人気のあった18世紀末の地図帳に組み入れられ、イギリスにおいて、広く認められまた影響力も大きかった。
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No.103 ブリオン=デ=ラ=トゥール, L
(
BRION DE LA TOUR, Louis
)
「
大タタール国および日本諸島
(GRANDE TARTARIE ET ISLES DU JAPON...)
」
31×27.5(cm)
1766
【解説】:
この魅力的に彫られた銅版地図は、1776年パリでL・デスノスによって出版されたデラ・トゥール(1746-1823年)の影響力のある華やかで装飾的な「市民と聖職者の一般地図帳」のために、制作したものである。
地図は、カスピ海とノヴァヤゼムリャ島からカムチャッカ、日本、朝鮮に至る北東アジア地方が図示されている。日本と朝鮮は、ダンヴィルのタタール、中国およびアジアの初期の地図の輪郭を見本にしているが、本州はややでこぼこの輪郭である。北海道の島はやや東に広がり過ぎていて、エトロフとイルップの2つの千島諸島はデ・フリースのスターテン島と会社の士地とされ、そして残りの千島諸島は、カムチャッカの東にはっきりと示されている。
地図は別個に彫られた装飾的なフランスの百合の花飾りの紋を取り入れた縁取りで囲まれている。
デスノスによるこの地図帳の重版には、より大きい2折判も出ており、注釈文のパネルが地図の両側の空白部分に貼り付けられ、また別の独立して彫られた縁取りが全部を囲んでいる。
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No.104 ベラン, J. N
(
BELLIN, Jacques Nicolas
)
「
日本帝国地図
(CARTA DELL'IMPERO DEL GIAPPONE...)
」
31×21(cm)
1770頃
【解説】:
ベランの精巧に彫られた魅力的な日本地図で、1752年のプレヴォの「旅行記集」の第10巻に初めて発表されたが、これは珍しいイタリア版である。プレヴォの作品の人気は高く、まもなくこの版はオランダ語、ドイツ語、デンマーク語でも印刷された。この地図はイタリア語版のようである。
これは新たに彫られた地図であり、表題の花枠はややあっさりとして、また筆記文字がイタリア語に翻訳されていることを別にすれば、全ての点において、この地図は1752年の地図と同じである。
この地図の珍しい稀少な版である。
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No.105 ボーエン流儀
(
After: BOWEN, Emanuel
)
「
日本帝国新地図 ポルトガルとオランダの記録、パリにてベラン氏出版。E・ボーエンによる訂正
(NUOVA CARTA DELL'IMPERIO della GIAPPONE guista la Memorie de'PORTOGHESI e OLANDESI... Publicata da Mr.Bellin a Parigi e Rectificata... da Eman Bowen.)
」
40.5×34.5(cm)
1770頃
【解説】:
ボーエンの1747年の日本地図の特異なイタリア版であるが、これはまたシャルルヴォアの「日本の歴史・地誌」に発表された、フランスの地理製作者ベランの1735年の地図を忠実に見本としたものであり、このベラン地図はボーエン自身が複写したものである。この地図は、今日まで確認はされていないが、ボーエンの「地理新体系」のイタリア版に出た可能性があり、または当時書籍出版として普及していたイタリアの世界地名辞典に出たものかもしれない。
地図の詳細は基本的にはボーエンのものと同じであるが、表題枠は、東洋の人物は無く別の縁取りで、魅力的なロココ調の縁に置き換えられている。
これと同じ頃、1785年、W・バチーヌが出版したボーエンの地図帳「~地図帳」がアムステルダムで出た。したがって、ボーエンとベランの地図はヨーロッパ中に幅広い人気を博していた。
どの主要な地図製作文献あるいは参照文献にも記録されていない珍しい一品である。
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No.106 ブリオン=デ=ラ=トゥール, L
(
BRION DE LA TOUR, Louis
)
「
大タタール国および日本諸島
(GRANDE TARTARIE ET ISLES DU JAPON...)
」
31×27.5(cm)
1766
【解説】:
この魅力的に彫られた銅版地図は、最初は、1776年パリでデスノスによって出版されたデラチュール(1746-1823年)の影響力のある華やかで装飾的な「市民と聖職者の一般地図帳」のために制作された。
地図そのものは、1766年の地図帳に印刷された地図と、右上隅の2判の番号以外は、あらゆる点で同じである。しかし、この地図は、やはりデスノスによって後に出版された大判の地図帳からのものである。これは2折判で、地図の両側の見返しの外側に注釈パネルが付け加えられ、それはロココ調の花綱、科学の器具および地球儀の新しい装飾縁取りで囲まれている。
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No.107 ラットレ, J
(
LATTRE, Jean
)
「
日本諸島を含む中国帝国
(L'EMPIRE DE LA CHINE avec les Isles du Japon...)
」
25×18(cm)
1770頃
【解説】:
ラットレによって、1770年頃にパリで印刷された、中国と日本の魅力的な小型銅版地図である。
この地図は、中国と日本の情報源および輸郭をダンヴィルの地図から取り入れ、日本の主な3つの島は北海道の南端と共に図示されている。
表題は右下に花綱の花枠の中に書かれ、中国の異なった地域区分を概説した表がついている。地図の下には、中国、日本、海里、フランスマイルの4つの縮尺が見える。
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No.108 ドゥ=ヴォゴンディ, R
(
DE VAUGONDY, Robert
)
「
アジアロシア沿岸、蝦夷および日本諸島を含むアジア北部および東部地図
(CARTE des Parties Nord et est de L'ASIE qui comprend LES COTES DE LA RUSSIE ASIATIQUE,... LE JESSO ET LES ISLES DU JAPON...)
」
37×29(cm)
1774
【解説】:
ディデロの有名な「百科全書」の1774年の別冊(補遺)として、ヴォゴンディの地図が使用された地図帳の部は、多くの興味ある太平洋の西海岸と北西部海岸を含んでいて、カリフォルニアとそれ以北の地域を描くために、その時点までに使用された様々な輪郭を客観的に相関関係で捉えることとなった。
ヴォゴンディは、ここで、北太平洋について、異なる地図製作の輪郭を小さな多数の挿入地図で対照させて、西洋の地図製作上の知識の集積を纏め上げている。大きな地図は1774年時点のスカンディナヴィアから日本までの地域の描写であるが、依然不正確である。先ず一つは、本州の形で、またその北には北海道がサハリンと合併されて描かれでいる。アメリカの北西海岸は仮の海峡と入江の配列で示され、北西航路の憶測が続いている。4つの挿入地図はこの地域の詳細を与えていて、挿入地図1は、オルテリウスの1589年の太平洋地図を使用し、挿入地図3は、P・キノの1701年のバハカルフォルニア地図を、挿入地図4は、C・ウィツトフリートの1597年のアニアン、すなわち北西アメリカの地図である。
太平洋北部および北西部の魅惑的な西洋の地図製作知識の概論である。
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No.109 サンティニ, P
(
SANTINI, P.
)
「
日本帝国
(L'EMPIRE DU JAPON...)
」
53.5×46.5(cm)
1778
【解説】:
ヴォゴンディの作品の人気は大きかったので、サンティニは、1776年から1784年間ヴェニスで、同じタイトル「世界地図帳」のわずかに改定した2折判地図帳の版を出版した。
この地図は、新しい彫りではあるが、1750年のヴォゴンディの地図と、地理的なまた地誌的な詳細は同一である。緯度経度の罫線は広くなり、右下の縮尺は、イタリアのマイル縮尺を加えるために改定されている。
この「世界地図帳」は、1784年以降、G・レモンディニによってヴェネチアで再版されている。
この精巧な地図は、18世紀後半におけるヴォゴンディ作品の広範な人気と影響を示すものである。
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No.110 ボンヌ, R
(
BONNE, Rigobert
)
「
中国帝国、中国タタール地方および朝鮮王国。日本諸島を含む。
(CARTE DE L'EMPIRE DE LA CHINE, DE LA TARTARIE CHINOISE ET DU ROYAUME DE COREE Avec les Isles du Japon.)
」
21×32(cm)
1780頃
【解説】:
ボンヌはおそらく18世紀後半で最も多作のフランス人地図作成者の一人であろう。彼の「携帯地図帳」や「百科事典地図帳」などの小型8折判地図帳は1780年代および1790年代には広く流行した。
アンドレによる魅力的な彫りで、地図にはバイカル湖、チベットから朝鮮、日本、北海道および北部フィリッピンの一部までの極東が図示されている。
日本の輪郭はヴォゴンディの1750年の日本の地図から描かれ、朝鮮はかなり大きく、また本州は太った短縮されたものである。北海道は蝦夷が島として示され、サハリンとカムチャッカはなお混同して描かれている。極東の魅力的な18世紀後半の地図である。
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No.111 ボンヌ, R
(BONNE, Rigobert)
「中国タタール地方、朝鮮王国および日本諸島
(TARTARIE CHINOISE, ROY. DE COREE ET ISLES DU JAPON.)」
35×23.5(cm)
1780頃
【解説】:
ボンヌはおそらく18世紀後半で最も多作のフランス人地図作成者の一人であろう。彼の「携帯地図帳」や「百科事典地図帳」などの小型8折判地図帳は1780年代および1790年代には広く流行した。
アンドレによって魅力的に彫られ、地図にはゴビ砂漠から満州、朝鮮、日本およびその北の島々が図示されている。
日本の輪郭は、ボンヌの多くのこの地域の他の地図と同様、ダンヴィルのタタールおよびアジアの地図から描かれている。しかし最も興味深いのは、北海道の奇妙な図形で、小さな島「マツァキ」(マツマイ)として、本州の北に図示されている。エトロフとウルップの2つの千島諸島は図示されているが、ロシア名の「ロノストレ」と「ジールーノリ」である。
18世紀後半の最も多作のフランス人地図作成者の一人による興味ある珍しい地図である。
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No.112 クロウエ, J. B. L. L
(
CLOUET, J. B. L, L'Abbe
)
「
無題:中国帝国について、朝鮮について、日本について
(Untitled: DE L'EMPIRE DE LA CHINE... RE DE COREE... DU JAPON.)
」
56×31(cm)
1780頃
【解説】:
この魅力的な中国および日本の小さな2折判の地図は、1786年頃パリで出版され、忠実にダンヴィルの輪郭を見本としている。
地図は、中国とその北の進貢国(属国)の地域、また北海道や南千島のある日本をデ・フリースの輪郭に基づいて図示している。サハリンはかなり北の方に細長い島とされている。地図にはほとんど地誌的な詳細はない。
最も興味のある地図の特徴は、中国、朝鮮、日本を描写した側面の文章(のパネル)である。
この地図は18世紀後半の当時人気のあった百科事典的な地図帳の1に出ており、これはラベ・クロウエによる出版である。
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