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No.167 フィッリプ, Gと息子
(
PHILIP, George and son
)
「
朝鮮と日本
(COREA AND JAPAN)
」
63×50(cm)
1851
【解説】:
魅力的な19世紀中葉の日本と朝鮮の地図で、1814年のトムソンの「新一般地図帳」の地図を見本としている。リヴァプールのフィッリプとその息子の会社のために、エディンバラでJ・ゲッラトリによって出版された。
この地図は地誌的なまた地図製作上の詳細はトムソンの地図を修正なしに複写して、また66の地域区分は、目立つ独自の色で魅力的に区別されている。
この後のトムソンの刊行した地図と同様に、左下に、ホール船長(艦長)の1816年の「朝鮮西海岸ヘの航海」からの抜枠がある。
興味深いまたやや時代遅れの後期のトムソンの複写である。
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No.168 ゴール&イングリス
(
GALL & INGLIS
)
「
ゴール&イングリスの中国と日本の地図...
(GALL & INGLIS' MAP OF CHINA & JAPAN...)
」
56×45(cm)
1852頃
【解説】:
中国と目本の精緻な一般地図で、スコットランドのゴール&イングリス出版社が、その1852年頃出版の「エディンバラ(帝国??) 地図」の中に発表した。
地図はチベット東部およびゴビ砂漠から朝鮮、日本へ広がっていて、北海道はわずかに南端のみである。日本は、まだペリー提督の率いるアメリカの「黒船」による群島の開国直前のやや時代遅れの輪郭で描かれている。
後期の石版地図としては、比較的珍しい一品である。
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No.169 S. D. U. K ― コックス, G
(
S. D. U. K. - COX, G.
)
「
日本帝国
(EMPIRE OF JAPAN)
」
35×43(cm)
1853
【解説】:
興味深い19世紀前半の日本地図で、初版は実用知識普及協会後援の下に、ボールドウィン&クラドックによって1835年に地図帳の形で出版された。
この作品の人気は非常なもので、1860年代の初めまで、多数のロンドンの出版社から再版された。この地図は実質的な変更はないが、重版には条約港の項目が追加されたこれは1853年のG・コックス出版の版である。
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No.170 モーリー, W. L ― ベント, S
(
MAURY, W .L. - BENT, S.
)
「
日本諸島地図 シーボルトの地図に、アメリカ合衆国の日本探検およびその他当局によるわずかの追加と訂正がある...
(MAP of the JAPAN ISLANDS copied from von Siebolds with slight additions & corrections by the US Japan Expedition and other authorities...)
」
36×31(cm)
(1855)1856
【解説】:
この小型ではあるが詳細な日本諸島地図は、「1852、1853、1854年のアメリカ小艦隊の中国沿岸海域(China Seas 東シナ海、南シナ海、黄海)および日本ヘの遠征物語」に出ており、 1856年に初めてワシントンで出版された。
この地図は、ペリーの「黒船」の到来した時代の日本の地誌的記録を提供するものであるが、現実には「日本帝国」と題してシーボルトが作成した1840年の大判地図および1852年ペリー遠征のまさにその時に出版された「日本」に基づいている。興味深いのは、シーボルトの地図に採用されている多くの情報は、代わるがわる最上徳内および伊能忠敬をはじめとする日本国内の情報源から出ていることである。
地図は、北海道および南千島、さらに朝鮮沿岸と満州の一部を含む日本全体を描き、諸島の沿岸の特徴を詳細に示しているが、これはシーボルトの地図を更新するためのペリー遠征の調査結果の一部を含んでいる。これよりさらに大判の地図で、日本をさらにもっと大縮尺で図示したものが「物語」に出ている。
モーリー大尉は、また後の1859年から1862年にアメリカ海軍が作成した日本海図でも知られている。
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No.171 モーリー, W. L ― ベント, S
(
MAURY, W .L. - BENT, S.
)
「
ペリー遠征からの大判海図 1856年
中国沿岸および日本諸島沿岸海図 マリアナ諸島およびフィッリピン諸島の一部を含む...
(The large chart from Perry's Expedition 1856
CHART OF THE COAST OF CHINA AND OF THE JAPAN ISLANDS...)
」
103×106(cm)
(1855)1856
【解説】:
この精緻で大判の海図は、ペリー提督の指揮のもとアメリカの日本遠征物語の付録として出版された。遠征の完全な報告書の初版は1856年である。
1853-54年、ペリーの2回の遠征は、17世紀以来の鎖国時代の終わりと、国際的貿易と通商へ日本を開国する画期となった。1854年3月に批准された日米友好条約は1855年以降下田と函館の開港を、また下田にアメリカ領事館の設置を可能にした。
合衆国海軍のモーリー大尉およびベントの描いた地図は、東アジア全体を、フィッリピン北部、中国沿岸全部、アジア東部、日本、北海道および千島のエトロフ島にいたるまでを図示している。
地図は、内陸部にかんしての詳細は殆どない。この度の詳細な調査には、 1854年5月函館港ヘの遠征隊の巡回を終えて、初めて北海道の多くの調査を含んでいる。
非常に重要で影響力を及ぼした地図で、日本の鎖国時代の終焉を画したペリー遠征隊の重要な成果の一つである。
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No.172 コルトン, J. H & C o.
(
COLTON, J. H. & Co
)
「
日本の本州、九州、四国、蝦夷、および日本の千島諸島...
(JAPAN NIPPON, KIUSIU, SIKOK, YESSO AND THE JAPANESE KURILES...)
」
40×32(cm)
1855頃
【解説】:
この見事なアメリカの石版地図帳のシリーズものは、1850年代および1860年代に、ニューヨークのコルトン、ジョンソン、ウォードおよびブラウニングの会社によって出版が始まった。
これらの地図帳は、その入念な縁取りの装飾の様式においても、また一つの版が次の版へと複写されていった地誌的な事項においても類似していた。
「一般地図帳」と題しコルトンが出版した世界地図帳は、 1854年に初版が出た。この地図は、出版者コルトン一家の創始者J・H・コルトン(1800-1893年)の銘がある。
この地図は日本全体を図示して、左上に北海道の挿入図と右下に長崎の挿入図がある。地図は情報源を「合衆国の日本遠征隊の成果を加味したシーボルトの地図」と謳っている。また1855年の登録日付があるが、これはペリーの報告書が最初に出版される1年前である。
地図は魅力的な装飾縁取りに囲まれているが、これがこの時代のアメリカ地図と確認される顕著な特徴である。
シーボルトおよびアメリカ日本遠征隊の影響を示す興味深い詳細地図である。
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No.173 アントワーン, L
(
ANTOINE, Louis
)
「
中国および日本。パリ。L・アントアーヌ編、ノイエル通り70
(CHINE ET JAPON. Paris Impr. Louis Antoine, Rue des Noyers 70)
」
28.5×22(cm)
1855頃
【解説】:
この魅力的な小型の石版地図は、フランスのパリで、アントワーンによって出版されたもので、1854年から1874年までに彼が出版したアンドリヴォ-グヨーン地図帳の一つに発表したものであろう。
地図はチベットおよび中央アジアから、中国、朝鮮、日本、北海道およびサハリンまでの極東を図示している。当初の輪郭をかたどる色は、北海道、サハリン全部およびエトロフの南千島諸島を日本として示している。右下隅の魅力的なさし絵には、広東の港に面した西洋風の商館が描かれている。
興味深いまた、珍しいフランスの石版地図である。
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No.174 タリス, J
(
TALLIS, John
)
「
日本と朝鮮
(JAPAN & COREA)
」
33×25(cm)
1855頃
【解説】:
この地図は、すでにこのコレクションのりストに挙げられたタリスの地図に、あらゆる点で同じであるが、重版された地図帳からのもののようで、タリス社ロンドン印刷出版社というインプリントがある。
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No.175 チヴェリ, G
(
CIVELLI, Guiseppe
)
「
中華帝国と日本
(IMPERI CHINESE E GIAPPONESE)
」
38×27(cm)
1855頃
【解説】:
このP・ベッツェラにより彫られた石版地図は、1855年頃大判の4折判地図帳としてイタリア、ミラノでチヴェリによって出版された。チヴェリについては殆ど知られておらず、彼の唯一の注目される仕事は、1853年に出版された詳細な大判の28枚のイタリア地図である。
この地図はチベットおよび中央アジアから、中国、朝鮮、日本、北海道およびサハリンまでの極東を図示している。当初の輪郭をかたどる色は、北海道、南サハリンおよびエトロフの南千島諸島を日本として示している。
興味深いまた詳細な19世紀中葉の地図である。
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No.176 モース & ガストン
(
MORSE & GASTON
)
「
日本
(JAPAN)
」
15.5×12.5(cm)
1856頃
【解説】:
この精緻な石版地図は、モース&ガストン出版社が1856年頃に制作した珍しいミニアチュアの「東洋の地図帳」のために、ニューヨークで出版された。
地図は、日本全体を図示していて、県区分と地方区分があり、中央上に北海道の大きな挿入図がある。
ペリーの遠征後まもなく出版された稀少で珍しい小さな地図である。
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No.177 S. D. U. K ― スタンフォード, E
(
S. D. U. K. - STANFORD, E.
)
「
日本帝国
(EMPIRE OF JAPAN)
」
35×43(cm)
1857頃
【解説】:
興味深い19世紀前半の日本地図で、実用知識普及協会後援の下に、ボールドウィン&クラドックによって初めて1835年に完全な地図帳の形で出版された。
この地図は、以前に出たボールドウィン&クラドック版と殆どの点で同じであるが、およそ1857年以降、スタンフォードがこの地図帳の出版を引き継いだ。
重版には、ペリー遠征に引き続いて、イギリスが交渉を終えたばかりの条約港の項目が含まれている。
19世紀中葉の人気のあった広く普及した日本地図である。
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No.178 ウェラー, E
(
WEILLER, Edward
)
「
日本帝国
(THE EMPIRE OF JAPAN...)
」
30×42.5(cm)
1856
【解説】:
この詳細な石版地図は、ウェラーの1858年の「週刊特派員地図帳」に発表されたものである。地図は、今詞まで、最も正確なものの一つで、北海道を含めて全ての島々の輪郭は正確に図示されている。
アジア大陸も、サハリン島や満州のアムール川沿いの新たに決定されたロシア-中国国境と共に図示されている。サハリンは南北が、ロシアと日本で分割されて示されている。
興味深いヴィクトリア中期のイギリス地図である。
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No.179 オリファント, L
(
OLIPHANT, Laurence
)
「
オリファントの日本 1859年
日本帝国
(Oliphant's Japan 1859
EMPIRE OF JAPAN)
」
23×21(cm)
1859
【解説】:
この質素に彫られた地図は、スコットランドのジョンストン社によるもので、「エリジン卿の秘書オリファントの1857、58、59年のエリジン卿の中国および日本ヘの使節団物語」に記載されたもので、1859年エディンバラで、W・ブラックウッドと息子の会社により、 2巻本として出版された。
オリファントは、エリジン卿の個人秘書で、秘書としての特別の才能よりも、エリジンとの家族的縁故で秘書の地位を得て、世界中の血沸き肉踊る様々な経験をした人物である。彼自身の報告によると、「普通でない所に出かけ、誰もやったことのない事をする時に役立つ人で」あった。その点では、日本ヘの使節団は大いに適していた。1858年T・ハリスが交渉を終えた日米条約のすぐ後を追って、使節団の目的はイギリスも同様の条約を批准することであった。条約は1858年8月に批准され、自由貿易と日本にイギリス人の居住地を作ることができるようになった。それは19世紀の産業大国と日本の間の永続的な関係の始まりであった。
19世紀の初の日本ヘのイギリス通商使節団の興味深いまた詳細な記録である。
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No.180 ロビクエット, A
(
ROBIQUET, Aime
)
「
日本海および朝鮮周辺海地図
(CARTE DES MERS DU JAPON ET DE LA KOREE...)
」
100×66(cm)
1859
【解説】:
この大判の中国北部、朝鮮、満州、日本および北海道沿岸の海図は、1859年フランスの水路測定師ロビクエットによって、パリで出版された。
黄海の詳細な沿岸情報および水深測量が提供されており、また日本の詳細な沿岸も示されている。本州南西沿岸は図示が不十分で、また新たな英語名が多数の特徴的な沿岸につけられたが、これは1850年代末、イギリス条約港開港後のイギリスの調査の結果であろう。
詳細な挿入図は、1852年8月フランスのE・ムウシェズ(1824-1892年)大尉によって調査され、現在のウラディオストックのすぐ南にある満州沿岸のダンヴィルの湾を描いている。
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No.181 ガーニエ, F. A
(
GARNIER, F. A.
)
「
東アジア-中国と日本
(ASIE ORIENTALE-CHINE & JAPON)
」
47×34(cm)
1860
【解説】:
1860年パリで、ガーニエの「球形地図帳と世界地理」に発表されたこの魅力的な中国と日本の地図は、チベットおよび中央アジアから日本、千島諸島、サハリン、カムチャッカまで広がっている。
ガーニエ(1803-63年)は、V・J・ルノアールによって出版されたこの地図帳で、おそらく最も良く知られている。
この地図は、この地域を興味深いまた詳細な図で現わし、北海道と南千島諸島は日本領土として示されている。
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No.182 アンティコ, C (彫工)
(
ANTICO, C. (engraver)
)
「
朝鮮、満州、日本帝国および千島諸島
(LA COREA, LA MANCHURIA, L'IMPERO DEL'GIAPONNE e L'Isole Kurille)
」
34×26.5(cm)
1860頃
【解説】:
イタリア地図帳1860年頃「商業地図帳」に発表されて、この地図は東アジアを朝鮮から千島諸島まで図示している。
魅力的に彫られて、また流麗に描かれた表題が右下に見える。
この地図は、この地域の詳細な輪郭を提供し、また面白いことに、千島諸島ではなく、南サハリンが日本領士の一部として示されている。
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No.183 フルデンベルク, G. A
(
HULDENBERG, G. A
)
「
日本図
(KARTA ofver JAPAN. STOCKHOLM. G.A.Huldebergs Bokhandel Bazaren a Norrbro.)
」
23×29(cm)
1860頃
【解説】:
非常に珍しくてまた希少なスエーデンの地図は、書籍販売商フルデンベルクによって出版された。この会社については何も知られておらす、その対象分野も分からないが、地図の体裁からは、1860年代初期の日本旅行記から来ているようで、ペリー提督の遠征の成果に関わるものであろう。
確かに、地図はアメリカで1856年初版のペリー提督の地図から取られているようである。スエーデン語の翻訳は、多数の地名があり非常に詳細で、また北海道についても非常に詳細な情報を提供している。
非常に珍しい一品である。
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No.184 ヴァーチュ, J ― ヒュー, G
(
VIRTUE, J. - HUGHES, G.
)
「
日本諸島と朝鮮、満州およびアムール川沿いのロシア領土
(THE ISLANDS OF JAPAN with COREA, MANCHURIA AND THE RUSSIAN TERRITORY ON THE AMOOR)
」
21.5×29.5(cm)
1860頃
【解説】:
この詳細なカラー印刷の石版地図は、朝鮮、中国、国境紛争の満州および日本、北海道およびサハリンを図示している。
これは1858年のウェラーの「週刊特派員地図帳」に発表した地図に非常に良く似ており、また満州のアムール川沿いで紛争のあった中国-ロシア領士に特別の注意を払っている。
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No.185 ブラッキーと息子
(
BLACKIE & SON
)
「
日本
(JAPAN)
」
25×34(cm)
1860頃
【解説】:
この精緻な日本の石版地図は、グラスゴーのブラッキーと息子の会社によって出版され、 19世紀後半の彫工で地図作家としての実力者ウェラーが彫ったものである。
地図はペリーの遠征後まもなく出版され、日本の諸島はますます詳細になり、また正確な輪郭で描かれている。注目すべき点は、北の北海道は特に良く描かれていて、一部分はブロートンおよびクルーゼンシュテルンの調査の結果であり、またさらにいっそう、1855年以降の北海道南部、函館条約港の開港による結果である可能性が大きい。
興味深いまた詳細な19世紀中葉のスコットランドの地図である。
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No.186 コルトン, G. W & C. B
(
COLTON, G. W & C. B.
)
「
コルトンの日本の本州、九州、四国、蝦夷、および日本の千島諸島...
(COLTON'S JAPAN NIPPON, KIUSIU, SIKOK, YESSO AND THE JAPANESE KURLES...)
」
40×32(cm)
1860頃
【解説】:
この見事なアメリカの石版地図帳のシリーズものは、1850年代および1860年代に、ニューヨークのコルトン、ジョンソン、ウォードおよびブラウニングの会社によって出版が始まった。
これらの地図帳は、その入念な縁取りの装飾の様式においても、また一つの版が次の版へと複写されていった地誌的な事項においても、類似していた。
「一般地図帳」と題しコルトンが出版した世界地図帳の初版は1854年に出た。この地図は、J・H・コルトンの二人の息子G・W・コルトン(1827-1901年)と C・B・コルトン(1832-1916年)の銘があり、おそらくは1860年頃からのものである。
その他の全ての点では、初期J・H・コルトンの版と同じで、1855年の登録日付まで同じである。
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