No.21
ホンディウス, J ― ヤンソン, J ( HONDIUS, J. - JANSSON, Jan ) 

「 日本 (IAPONIA) 」 
19×13(cm) 1628
【解説】: この地図は、ヤンソンの1628年、メルカトール―ホンディウスの「小型地図帳」、本地図帳の完全新版シリーズの第1番目のアムステルダム版に初めて発表された新しい地図である。この地図帳のなかの地図は、ファンデンケールおよびグースにより彫られた。日本の地図はファンデンケールの刻印が地図の下中央に印されている。 この地図は最初の1607年、メルカトール―ホンディウスの日本のミニアチュア地図よりもっと一般的な縮尺に基づいており、その見本として1595年のオルテリウス―テイセラ型から複写された1606年の諸島の2折判地図を見本としたものである。 地図は、中国の沿岸、細長い島としての朝鮮と3つの島からなる日本である。表題は、 魅力的な渦巻き装飾に囲まれて壁掛けのような感じで右上にあり、スペインとドイツマイルの縮尺は右下にある。 これは1628年のラテン語版の地図である。

No.22
カルディム, A ( CARDIM, Antonio ) 

「 カルディムの最も重要なイエズス会の地図 1646年 新詳細日本図 カルディム作 (Antonio Cardim's most important Jesuit map 1646 IAPPONIAE Nova et accurata descriptio Per R.P. Antonium Franciscum Cardirm Societate IESU Ad Elogia Iapponia) 」 
41×27(cm) 1646
【解説】: この日本に関する初期イエズス会の最も重要な文書は、1646年ローマでC・エアーズによって出版されたカルディムの日本のカソリック教会の苦しい試練の物語「日本殉教精葦」に発表された。 カルディム(生年は1595-1659年とも1596年-1549年とも)は、日本のイエズス会修道会の会計事務長であった。中国の義和団員による地図はおそらく1614年以前に作成されていたが、後まで出版されなかった。カルディムの地図は、その多くを、おそらくはI・モレイラ 1592年頃(現在喪失)を下敷きに作成された地図で、当時イエズス会の報告に発表された情報と輪郭に多くを負っている。非常に類似した地図が1641年に、B・ジンナーロの出版したフランシスコ・ザビエルの生涯の物語に発表されている。 地図は大変に詳細で、情報もぎっしり書込まれている。イエズス会の任務と聖職者団は地図の上にある番号付き記号で識別される。諸島の形は、以前の輪郭に比べて、海岸線の出入りがさらに増えてより正確になった。魅力的な挿し絵が左下に見え、1549年8月鹿児島にポルトガル船に乗った聖ザビエルの到着を描いている。イタリア、ポルトガル、日本のマイル縮尺が右下に見える。 非常に重要で希少な地図で、日本のイエズス会のユニークな記録である。

No.23
ダッドレー, R ( DUDLEY, Sir Robert ) 

「 日本の最も重要な海図の一つ (One of the most important sea charts of Japan Asia carta di cia sete piu moderna.) 」 
56×42.5(cm) 1646
【解説】: 1646年フィレンツェで刊行されたダッドリー卿の重要な海図地図帳「海の秘密」の第2版のやや小さな日本地図である。 この地図は、この地図帳に収録された大判の日本地図と比べると、双方の輪郭は全く異なっていて、興味ある対照を見せている。この輪郭はジンナーロ(1641年)およびカルディム(1646年)によるイエズス会の地図と非常に類似しており、それが最も明瞭なのは、出入りの多い海岸線の細かさや琵琶湖が大きな内陸の入り江として瀬戸内海に大きく伸びていることである。ダッドリーがこの地図のデザインのためにイエズス会士の情報源を利用したことはありうることである。この地図は朝鮮の東部海岸および日本の3つの主な島を図示しているのみである。しかし北海道の輪郭は、大判の地図に非常に近く、地図の一番上に、西から東へ長い海岸線があり、テソイとも、ミナミとも、マツマイとも記述されている。 美しい絵画的な線描きと能筆は、イタリアの熟練した彫工ルチニの精巧な彫りで、この地図は17世紀日本のヨーロッパ地図製作史上最も重要な海図のひとつである。

No.24
ダッドレー, R ( DUDLEY, Sir Robert ) 

「 17世紀海図の非常に希少なものの一つ「日本と蝦夷、および朝鮮国と周辺諸島の地図」 (One of the most rare 17th Century sea charts Carta Particolare della Grande Isola del' Giapone e di Iezo con il Regno di Corai et aitre Isole in torne...) 」 
75.5×48.5(cm) 1647
【解説】: この華麗な日本の海図は、1646年から1647年にかけてフィレンツェで刊行されたダッドリー卿の最も重要で影響力をもった海図地図帳「海の秘密」のためにルチニによって彫られたものである。 ダッドリー卿は、レスター伯の非嫡出子で1605年頃からトスカナ公の庇護のもとにフィレンツェで異郷生活を送ったイギリス人である。 卿はほぼ30年間、2巻の海図を含む全6巻からなるこの記念碑的な地図帳の作製に従事した。これはイギリス人による初めての海図地図帳であり、また初めてメルカトル投影法によって作成されたという点で重要な地図帳である。 日本の地図は、この地図帳に出ている2つのうちの一つであるが、それ以前の輪郭とは全く類似のない様々な情報源から描かれたものに違いない。朝鮮は島として図示されている。3つの主な島は全て良く画定された海岸の詳細が図示されている。奇妙な特徴はオミ川が北に向かって流れ、その河口に江戸の町が図示されていることである!北の方には、大きな東西に亘った広大な土地が地図の上部を横切って広がり、テソイ、ミナミおよびマツマイと記述されている。地図はルチニの華麗かつ優美な美しい絵画的な線描きによって美しく彫られている。これは後に1661年版が刊行されている。

No.25
ヤンソン, J ( JANSSON, Jan ) 

「「日本図」 (IAPONIAE NOVA DESCRIPTIO) 」 
45×34(cm) 1647
【解説】: 1595年のオルテリウス-テイセラ型の地図に由来するこの希な後世の地図は、初めて17世紀中期の終わりに出版されたメルカトル-ホンディウス-ヤンソンの地図帳のシリーズに出てくるが、具体的にはこれは、アムステルダムで出版されたヤンソンの1647年版「新地図帳」のものである。 既出のメルカトル-ホンディウスの1606年の2折判地図に近い模写であるが、右上に魅力的な月桂樹の枚に飾られた楕円形の花枠の表題がつき、右下には割りコンパスを使う子どもの天使が座った花柄装飾のマイル縮尺がある。 日本の地図製作の観点からは、テイセラ地図に関して実質的には何の進歩も無く、朝鮮は長い島として図示され、3つの主な島のみで、北海道の表示は全くない。2艘のヨーロッパのガリオン船と海の怪獣が諸島海岸沿線の海を装飾している。 この地図はこの地図帳の1647年ラテン語版初版からのものである。

No.26
ヴァレニウス, B ( VARENIUS, Bernard ) 

「 影響を及ぼした日本に関する書物の表題頁 1649年「日本国図」 (The titlepage of an influential book on Japan 1649 DESCRIPTIO REGNI IAPONIAE...) 」 
5×10(cm) 1649
【解説】: この精巧に彫られた表題頁は、アムステルダムで1649年に、有名なエルツエヴィル出版社が出版し最も影響を及ぼした、またおそらく12折判の最も小さい書物の一つであるヴァレニウスの日本に関する本からである。 オランダの医者でありまた地理学者であるヴェレニウスは日本に関する入手可能な全ての17世紀の情報源として、イエズス会士の書簡、マッフェイの歴史、マルコ・ポーロ、カロン、他の記述などの情報を順序正しくまとめ、この重要で影響を及ぼした本を作成した。この本は後の多くの地図製作者および地理学者にとって情報源となった。 興味深いことに、このタイトル頁は、後1663年のカロンの日本に関する本のドイツ語版のタイトル頁にその構成はほとんど同一であるが、地図は別であり、二人の日本人が開いた地図は、どちらかといえば、様式化した「行基」の本州地図のようである。 小さな日本地図を図示した魅力的に彫られたタイトル頁のある重要で影響を及ぼした本である。

No.27
サンソン, N ― ブリエ, P  ( SANSON, N. - BRIET, P. ) 

「 フランスイエズス会士のカルディムの複写 日本王国、イエズス会の回想録に基づく同会Ph ブリエ神父の指示による。 (A French Jesuit copies Cardim ROYAUME DU JAPON Designe par le Pere Ph Briet de la Compagnie de Jesus Sur les Memoires de la mesme Compagnie.) 」 
52×37(cm) 1650頃
【解説】: サンソンのためにパリでP・マリエットにより出版された日本の重要な地図で、北フランスのイエズス会士で、サンゾンの生まれ故郷アッベヴィル居住のイエズス会神父ブリエによって作成された。 ブリエの見本は、1646年の諸島の海岸線が複雑にいりくんでおり、また特に瀬戸内海が誇張されたカルディムの地図を非常に厳密に踏襲している。66の地域区分はその地域の主要都市と同じく明確に描かれている。 重要な2折判大判の17世紀の地図で、日本のぎざぎざの形を普及させ、フランスの地図製作、また特にサンソンの地図に、この形を流布させることとなった。

No.28
ホンディウス, J ― ヤンソン, J ( HONDIUS, J. - JANSSON, Jan ) 

「 デ・フリースの実地調査を示す最初の印刷地図「日本および蝦夷図」 (The first printed map to show De Vries'surveys IAPONIA et TERRA ESO) 」 
19×15(cm) 1651
【解説】: 非常に重要でまた見過ごされてきた地図で、この小さなミニアチュアは、1651年アムステルダム版ヤンソンの編集になるドイツ語版メルカトル「小地図帳」で、わずか7年前のデ・フリースの探検での発見を示す最初の地図である。これはヤンソンのもっとも有名で、1652年頃最初に出版された大判2折判海図以前のものである。 この地図は、中国、三角形の島として図示された朝鮮、日本の3つの主な島は精巧なテイセラの輪郭に基づき、北方のデ・フリースの発見は、大きなエゾが北海道およびサハリン、スターテン島の千島諸島と会社の島を一緒にまとめて、その東海岸は空白で未完成である。 非常に珍しく重要で希少なミニアチュアで、この地図は1651年のこの版にのみしか出ていない。

No.29
サンソン, N ( SANSON, Nicolas ) 

「 日本諸島の図示 (DESCRIPTION DES ISLES DU JAPON...) 」 
27×18(cm) 1652
【解説】: 1652年出版の小型4折判の地図帳「アジア地図帳」はサンソンによって出版された希少な日本地図の非常に立派な見本であるが、パストローは、この地図を地図帳の1658年版ではサンソン、1652年の別の小地図を入れ替えて、この地図として記録している。 マリエットおよびサンソンによって出版されたブリエ作成の大判2折判の1650年の地図と同じく、地誌的また地図製作上の情報は1646年の珍しいカルディムの地図から、また記述は1649年に最初に出たオランダの地理学者ヴァレニウスの影響を及ぼした小型のエルツエヴィル出版の「日本国図」から引用された。 この地図は、日本のいりくんだ海岸線を繰返し図示し、また琵琶糊は、瀬戸内海から伸びて誇張された形で大きく描かれている。 地図は7地方に分けられ、下の中央に渦巻模様の楕円形の枠をともない、右にはたれ幕のついたマイル縮尺がある。 希少で、また珍しいカルディムの変形地図。

No.30
サンソン, N ( SANSON, Nicolas ) 

「 日本諸島 (LES ISLES DU IAPON) 」 
24×18.5(cm) 1652
【解説】: サンソンによるこの興味ある地図は、フランスの地図製作者による最初の小型4折判地図帳であり、その1652年に出版の地図帳「アジア地図帳」に発表されたものである。この地図はピローニンによって彫られたもので、彼の刻印が左下に見える。 これは日本の非常にいりくんだ海岸線のある1646年のカルディムの地図を踏襲したサンソンの1650年および1652年(著作権)の以前の地図と、その輪郭が非常に異なっている。興味深いのは、諸島の形はヤンソンの影響のある1652年と59年の海図に非常に忠実なことである。後の1683年の地図と同じように、奇妙で並外れた三角形の島としての朝鮮を借用しているが、もっと正確な北海道の輪郭は組み込んでいない。日本の北にある陸地は「イエッソ、イェゾ、またはセッソ島または陸地」と呼ばれ、朝鮮島の北から本州北部へ広がっている。 この地図は、後の版の地図帳ではカルディムを踏襲した別のものと入れ替えられているが、地図帳の1683年版のための、デウィンターが彫った新しい地図の見本であった。

No.31
ヤンソン, J ( JANSSON, Jan ) 

「 千島諸島および「会社の土地」-混乱した考え 日本国エゾ新詳細(図) (Kuriles and "Company's Land"-A confused picture NOVA ET ACCURATA IAPONIAE TERRAE ESONIS...) 」 
55×45.5(cm) 1652頃
【解説】: 17世紀の西洋の歴史上重要な日本地図で、初めてイェゾ(北海道)南部および北方諸島の海岸線のいくつかの実地調査が行われたが、その中の情報の一つを提供するものである。この地図は初めて1652年、ヤンソンの「大地図帳」の海図部第5巻に出た。 地図は、1643年にバタヴィアから重要なオランダの探検を指揮し、またヨーロッパ人で初めてこの地域の水域を海図にした一人に数えられるデ・フリースの海図から引用されている。この探検は、全ての外国人に対して鎖国政策を取っていた日本には上陸しなかったが、その北に進路を取り、日本北部および北海道の沿岸水域の詳細な水深測量を行った。探検隊は後にサハリンの南海岸を探検し、この地図は、北海道とサハリンが繋がっており、またアジア大陸に繋がっているという信念を強める結果となった。日本の輪郭はマルティーニの1655年の地図より以前のものであるが、しかし奇妙な朝鮮島を描いている。千島諸島の最南端は、オランダのオランダ国会にちなんで「スターテン島」と呼ばれ、イルップについては、デ・フリースは悪天候のもとでしか観察できなかったので、オランダ東インド会社VOCに敬意を表して「会社の土地」と呼ばれた。その東の果ては不明確で、将来に多くの推測を残す元となった。 キャンベルはこの地図の作成日を1659年と鑑定したが、コーマンは1652年の版を示している。

No.32
マルティーニ, M ― ブラウ, J ( MARTINI, Martino - BLAEU, J. ) 

「 17世紀の最も正確な地図の一つ「日本国」 (One of the most accurate maps of the 17th Century IAPONIA REGNUM) 」 
57×41.5(cm) 1655
【解説】: 17世紀の最も影響力を及ぼしまた重要な日本地図の一つであり、この地図は中国の杭州のイエズス会修道院長であったイタリア人マルティーニ(1614-1661年)が編集したものである。マルティーニの地図はJ・ブラウの注目する所となり、日本、中国および中国各省の17枚全ての地図を彼の「地球の舞台あるいは新地図帳」の第六巻「中国地図帳」に組み入れたのである。そして、これは中国に関する最初のヨーロッパ地図帳であった。 この地図は、それまでの全ての描写よりもかなりの向上が見られ、「19世紀以前の印刷された地図のどれよりも、日本の真の形に近い輪郭」(キャンベル)である。 3つの主な島は、朝鮮半島と共に図示され、その半島の南の海岸線はかなりぎざぎざに描かれた。えぞ地(北海道)は地図の極端に上の端に見え、その大きさや本州との関係には何らの記述もない。マルティーニは全ての大きな町や都市を示している。 彫りは精緻また優美で、この地図は1672年までに刊行されたブラウの地図帳に出ており、またP・モルティエの刻印と共に記録されているが、モルティエはこのブラウの判のいくつかを1690年代に入手した。 非常に重要でまた影響を及ぼした地図である。

No.33
デュヴァル, P ( DU VAL, Pierre ) 

「 日本諸島 (ISLES DU JAPON) 」 
12×10(cm) 1661
【解説】: デュヴァル(1618-83年)はサンソンの甥で、1661年パリで出版された彼のミニアチュア地図帳「世界地理」のために、この非常に稀少な日本のミニアチュア地図を作成した。この地図帳の版は、1670、1672、1676、1677、1682、1688、1712年と版を重ねており、この小型ポケット地図帳の人気を示すものである。 この地図のフランス語のタイトルを替えた、2つの別版のラテン語タイトルで出ている。 地図そのものは、叔父のサンソンとブリエの、誇張されたぎざぎざの海岸線と7つの地方に分けた輪郭を踏襲している。 タイトルは左上に小さな花綱の枠に囲まれている。

No.34
カロン, F ( CARON, Francois ) 

「 17世紀の地図中で最も奇妙でかつ奇怪なもの 日本国の位置を示す完全な地図 (The most eurious and bizarre of 17th Century maps Perfeckte Kaert vande Gelegenheit des Landts van IAPAN) 」 
37.5×24(cm) 1661
【解説】: この奇妙で例外的に風変わりな日本地図は、1661年ハーグで出版されたカロンの日本叙述のオランダ語初版に出ている。また、最初のドイツ語版は1663年に、またその後英語版も数版にわたり1670年代まで刊行された。 カロン(1600-1674年)は、17世紀初頭における東インド会社で最も経験を積んだ日本学の大家の一人であった。カロンは1619年から1643年の間、平戸と出島のオランダ在外商館に居留して働き、1639年からは出島の「長官」を勤めた。1936年、VOC通商長官フィリップルカスのために、この本の基礎となるものを作成していた。 この地図は、日本の最も奇妙な17世紀の地図製作の記録で、諸島の輪郭は非常に様式化され不正確である。中国と朝鮮の海岸は、(原文脱落)本州とアジア大陸をつなぐ狭い地峡は「蝦夷地」と呼ばれた。地図は多数の航程線の十文字形交差があり、怪獣と3艘のオランダ船で装飾されている。 これは非常に奇妙で珍しい地図で、また17世紀オランダ人の日本に関する大家の一人によって、本に発表されるというのは、いっそう奇怪である

No.35
ローン, J ( VAN LOON, Johannes ) 

「 日本への北東航路に対するオランダ人の信念 日本からノヴァヤゼムリャ島に至るアジアの北東沿岸 (The Dutch belief in a north-East Passage to Japan Noordoost Cust van ASIA van JAPAN tot NOVA ZEMLA...) 」 
54×43(cm) (1661)1666
【解説】: 北東アジアがノヴァヤゼムリャ島から日本へ広がっている珍しい海図は、あまり知られていないオランダ17世紀、海図製作者の一人であるJ・ローンの手になるものである。この版は1666年に、ローン原版を購入したJ・ウェスベルゲンの会社で、表題にウェスベルゲンの刻印を加えて発行された。この地図帳は「明るい光の北斗星」と題して、初めて1661年に刊行された。 この地図は、オランダ人の発見したノヴァヤゼムリャ島を明確に示して、アジアの奇妙な北部海岸線を図示している。東海岸は朝鮮をでこぼこのある半島として図示している。日本についていえば、主な島である本州はマルティーニの輪郭に依っており、蝦夷、スターテン島、および会社の土地は、デ・フリースの1643年の海図を踏襲したヤンソンの1659年の見本に依拠している。装飾的な表題の花枠は、裸の子供たちに囲まれて右上にある。マイルの縮尺は、これも陽気に戯れた裸の子どもたちに囲まれている。 この時代の多数の海図と同じように、これはノヴァヤゼムリャ経由で北極ヨーロッパから東洋ヘの北東航路が可能であるとの信頼を引き続いて与えた。しかし類似の海図と異なり、アジア大陸の東部のマルコ・ポーロのおとぎの「キャセイ」については触れていないが、この後の時代でさえなお、キャセイとのVOCの交易の機会があるのではないかと信じられていたのである。 希少でかつ珍しい海図である。

No.36
カロン, F ( CARON, Francois ) 

「 カロンの奇妙な日本地図のドイツ語版 特別の機会のために用意された正しい航海用の海図...日本 (A German edition of Caron's bizarre map of Japan Dierechte See-karte von der Gelegenheit... Japan) 」 
22.5×14.5(cm) 1663
【解説】: この奇妙で極めて風変わりな日本地図は、1663年のカロンとJ・ショウテンの「強大な日本王国とシャム、朝鮮に関する真実の記録」ドイツ語版に出ている。この地図は、1661年ハーグで出版されたカロンの作品の初版が添付されたより大判のオランダ版からのものである。 1663年のドイツ語初版は、その後数版が1670年代まで出た。 カロン(1600-1674年)は、17世紀前半のVOCで最も経験を積んだ日本学の大家の一人であった。カロンは1619年から1643年の間、平戸と出島のオランダ在外商館に居留して働き、1639年からは出島の「長官」を勤めた。1936年、VOC通商長官P・ルカスのために、この本の基礎となるものを作成していた。 この地図は、1661年の輪郭をほとんど正確に踏襲していて、諸島の輪郭は非常に様式化され不正確である。本州はまさしく「蝦夷地」と呼ばれた狭い地峡でアジア大陸につながっていることを図示している。諸島の地図製作法はかなり様式化されているが、この版は日本の主な都市の名前を付して内陸の詳細については充実している。 しかしながら、これは非常に奇妙で珍しい地図で、日本に関する大家の一人である17世紀オランダ商人による本に、これが出典されるのは、いっそう奇怪なことである。

No.37
グース, P ( GOOS, Pieter ) 

「 日本からノヴァヤゼムリャ島に至るアジアの北東沿岸 (Noordoost Cust van ASIA van JAPAN tot NOVA ZEMLA) 」 
54×44(cm) 1666
【解説】: グースの卓越したアジアの北東海岸の海図は、1666年アムステルダムで彼の有名な「海図帳」に発表された。 地図の最も注目すべき特徴は、本州の北へ様々な島を詳細に描写したことで、1643年のデ・フリースの航海中に作成された重要な海図についで、この地域の印刷された描写の中では最初のものとなる。 デ・フリースはこれらの諸島について詳細な情報を提供した最初の西洋人であるが、またその地図製作上の誤りは、その後1世紀半に及んで大きな混乱を起こす原因となった。デ・フリースは北海道の南部の海岸を地図に描くことができたが、首尾よく南千島諸島に到達して、エトロフをスターテン島と呼んで海図を作った。しかしウルップの海岸を大きな新しい広大な土地の始まりと解釈して、それをオランダ東インド会社VOCに敬意を表して、会社の土地と呼んだ。 デ・フリースの探検目標の一つは、マルコ・ポーロのキャセイの存在を検証するためで、当時なお今日の満州の海岸に存在すると信じられていて、この地図に、グースが図示したものである。 ローン、デ・ウィットおよびコイレンによる類似の海図と同じように、オランダ人はノヴァヤゼムリャ経由で、北極ヨーロッパから日本ヘの北東航路が開ける可能性を、この地図に図示されているように信じ続けていた。

No.38
ブローム, R ( BLOME, Richard ) 

「 中華帝国...隣接日本諸島...の新地図 (A New map of Empire of CHINA... the adjacent Isles of Niphon...) 」 
38×34(cm) 1669
【解説】: この珍しく馴染みの少ないイギリス地図はブロームによってロンドンで出版されたが、おそらく彫りは有名なW・ホラーが1670年の彼の地図帳「世界の記述」のために彫ったものであろう。 ブローム(1660-1705年誤記)は、伝えられる所によれば他の地図製作者の剰窃、その最たるものが「スピーズ地図の要約」で、J・スピーズの郡地図帳を複写したことで、地図製作者の間では不当に評判が悪かった。しかしこの点に関しては、そのやましさは同時代の同業者としては人並みの行為である。 この地図は中国、朝觧および北海道の南端を描いた日本を図示している。地図の輪郭は特に日本については、非常にいりくんだ海岸線で、また瀬戸内海は琵琶湖まで伸びて、サンソンから直接に取っている。 右下の魅力的な標題は、盾形の紋章でかこまれて、ケント州ノルトンのT・ペイトン卿閣下に献呈されている。この装飾様式は17世紀のイギリスで地図製作の企画の資金集めの手段として普及していて、またブロームの多くの地図帳には、かつてのスポンサーや後援者が交替すると、いれ換えの献辞が糊付けされているのが見えるが、これはそれほど珍しいことではない。 魅力的で非常に珍しいイギリスの地図である。

No.39
タヴェルニエ, J. B ( TAVERNIER, Jean Baptiste ) 

「 日本諸島の地図... (CARTE DES ISLES DU IAPON...) 」 
31×21(cm) 1679
【解説】: この風変わりな地図は、初めて1679年にパリで出版されたタヴェルニエの「旅行記集」の小型4折判に現われた。 タヴェルニエ(1605-1689年)は、1669年に貴族の称号を受け、またパリの有力な地理製作者M・タヴェルニエの甥であるが、旅行家として有名であった。彼の記述は中東およびペルシャ湾でダイアモンド等の宝石商として従事していたことを回想している。彼はまたトンキン王国(ヴェトナム)について記述をした最初の一人で、詳細な宮廷の儀式の記述を、魅力的に彫られた地図および版画とともに提供した。 彼の日本の記述は、現地を訪れたことがなく他の作家の記述に基づいたもので、地図は、幾分精巧にできてはいるが、カルディムとブリエの湾入の多い輪郭を厳密に複写した。おそらくこの地図の最も面白い特徴は、オランダ人が長崎の商館から江戸へ向かう際たどったルートについての記述であり、そのルートに沿ってタヴェルニエの様々な土地と特徴の詳細な注釈がある。 風変わりで珍しい地図である。

No.40
タヴェルニエ, J. B ( TAVERNIER, Jean Baptiste ) 

「 日本で最も美しい女性を突き止め紹介している 1679年 日本諸島の地図... (The most beautiful women in Japan located: 1679 CARTE DES ISLES DU IAPON...) 」 
76.5×51.5(cm) 1679
【解説】: この珍しい大判の地図は、初めて1679年にパリで出版されたタヴェルニエの「旅行記集」の2折判に出た。 タヴェルニエ(1605-1689年)は、1669年に貴族の称号を受け、またパリの有力な地理製作者M・タヴェルニエの甥であるが、旅行家として有名であった。彼の記述は中東およびペルシャ湾でダイアモンド等の宝石商として従事していたことを回想している。彼はまたトンキン王国(ヴェトナム)について記述をした最初の一人で、詳細な宮廷の儀式の記述を、魅力的に彫られた地図および版画とともに提供した。 彼の日本の記述は、訪問したことがなかったので、他の作家の記述に基づいたもので、地図は、幾分精巧にできてはいるが、カルディムとブリエの湾入のある輪郭を厳密に複写した。おそらくこの地図の最も面白い特徴は、オランダ人が長崎の商館から江戸参府の際たどったルートについての記述であり、そのルートに沿ってタヴェルニエの様々な土地と特徴の詳細な注釈があり、岡崎の街のどこで日本一の美人が捜し出せるかという話もある。 この地図の縮小判はラテン語、ドイツ語、英語文で彼の後の作品の出版物の中に見出される。