No.81
ティリオン, I ( TIRION, Isaac ) 

「 日本帝国 (IMPERIO DEL GIAPPONE) 」 
32×25(cm) 1740
【解説】: 1735年にアムステルダムで出版された、ティリオンの「新常用地図帳」に初めて発表され、またケンペルの「歴史」の小型8折判に見られる類似の地図を見本とした、ティリオンの精緻な日本地図の魅力的なイタリア版である。 このイタリア版は、表題が短いものに置き換えられている以外は1738年にG・アルブリッチにより印刷されたT・サルモンの「歴史」のイタリア版に印刷されたものとほぼ同一である。同じ図版と思われるこの地図は「ヴェニスの地図」と題され同じくヴェニスで1740年に印刷されたものをもとにしたイタリア版地図の第一巻にも印刷されている。 その他の点では、この地図は地理製作上また地誌的詳細はこれ以前のティリオン地図のオランダ版を踏襲している。 この数多く再発行された地図の珍しい版である。

No.82
レランド, A ― オッテンス, R & I ( RELAND, A. - OTTENS, R & I. ) 

「 日本帝国 (IMPERIUM JAPONICUM...) 」 
59.5×46(cm) (1715)1745
【解説】: この日本諸島の素晴らしく装飾的な地図は、有名な東洋学者、レランドによって出版され1715年に初めて現れた。彼の地図の2つの版は同じ年に出ており、このより装飾的な版が特に人気を博し、1745年頃までヴィッシャーやオッテンズの地図帳に再発行されてきた。これは1745年頃、アムステルダムで発行された最後の版で、R.&I.オッテンズの刻印がある。 興味深いのは、ライナーとヨシュア・オッテンズは、ケンペルの地図のオランダ版の複製も、1727年のケンペル「歴史」の原本からの都市計画およびルート図と共に発行している。 刻印を除くと、全ての点でこの地図は最初の1715年版の地図と同じであり、この事はレランドの作品および彼が複写した日本の木版地図が、18世紀の半ばまで、継続して人気を博しまた影響を持ったことを意味している。

No.83
レランド, A ― ゾイター, M ( RELAND, A. - SEUTTER, M. ) 

「 日本帝国 レランド改訂版 1745年 (IMPERIUM JAPONICUM...) 」 
57.5×46.5(cm) 1745
【解説】: M・ゾイターによるレランドの素晴らしいまた装飾的な1715年の日本地図の複製地図として、この地図は1745年ドイツのアウグスブルクで、ゾイターの「新地図帳」に発表されている。 彫りは完全に新しく、中央にあった献辞は、レランドの地図では下に沿って記されていた地図の原版と出典についての記述と置き換えられていて、左下の詩文は替えられている。 その他の全ての点では、この地図はほとんど同じであり、また特に、66の地域名の記述に仮名文字を使用したことは注目すべきものである。レランドの前の地図と同じように、右下に、装飾的な紋章図案の装飾をともなった長崎の大きな挿入地図が見られ、また楕円枠の周りの様々な情景は1669年のA・モンタナスの彫りから複写されている。 精巧で装飾的な地図は、18世紀初頭のヨーロッパの地図製作仲間では日本の木版画地図に対する知識が高まり、またそれが継続して普及したことを示すものである。

No.84
ベラン, J. N ( BELLIN, Jacques Nicolas ) 

「 日本諸島、朝鮮...中国の地図 (CARTE DES ISLES DU JAPON... COREE... Chine) 」 
28.5×21(cm) 1746
【解説】: この日本、朝鮮および中国の海岸の一般地図は、A・F・プレヴォの「旅行記集」に、出ているが、この歴史書は、1746年から1789年の間にパリで出版された網羅的な20巻本で、この中にベランの精緻な銅版地図を組み入れている。この地図は日本とその都市を描いた作品の6枚のうちの1枚で、2巻に出ている。 10巻の他の日本地図と同じく、日本の輪郭はシャルルヴォアにより出版されたベランの以前の1735-6年の地図から取られている。 この地図は、ベランの全ての小型地図と同じく、右下に、魅力的なロココ様式の表題で装飾されている。 プレヴォの作品の人気は高く、まもなくオランダ語、ドイツ語で、また遅れてデンマーク語でも印刷された。

No.85
ベラン, J. N ( BELLIN, Jacques Nicolas ) 

「 東太平洋の広がり。スンダ列島、日本諸国...を含む。海軍技師N・ベラン作成。1746年 (SUITE DEL'OCEAN ORIENTALE Contenant LES ISLES DE LA SONDE... LES ISLES DU JAPON... Par N.Bellin Ingenr de la Marine 1746) 」 
30×29(cm) (1746)1761
【解説】: この魅力的な東インド諸島の海図は、マラッカ海峡からニューギニアおよび日本まで伸びているが、A・F・プレヴォ1761年の「旅行記集」の17巻に出ている。 1746年から1789年の間に出版された網羅的な作品は、偉大な探検者や航海者の記述を描こうとしたもので、おそらく18世紀のフランスで最も知られた地理製作者および水路測量者の一人であるベランによって彫られた精巧な銅版地図のシリーズが添えられていた。 日本の輪郭は、2巻と10巻に出た他の地図と一貫性をもつ同一作品で、シャルルヴォア1736年の「日本の歴史・地誌」のために彫った大判の地図から忠実に複写されたものである。

No.86
ボーエン, E ( BOWEN, Emanuel ) 

「 ポルトガル人およびオランダ人の回想を基にした日本帝国の新しいかつ正確な地図 (A New and Accurate Map of the EMPIRE of JAPAN Laid down from the Memoirs of the Portuguese & Dutch...) 」 
43×35.5(cm) 1747
【解説】: ボーエンの日本諸島の詳細な地図は、1747年ロンドンで出版されたボーエンの2巻本の地図帳「完全な地理体系」に初めて現れた。この場合と同じように、地図の多くはフランスの地理製作者ベランから直接に流用され、ボーエンはそれに依拠していることを表題で認めている。 ボーエンがほとんど正確に複写した地図は、1736年パリで出版されたシャルルヴォアの「日本の歴史・地誌」に、ベランによって発表されたものである。 またこの地図が興味深いのは、面白いまた興味ある注釈が、特に本州の北に、北海道およびその住民について多く記されていることである。 ベランの地図を見本とした精緻な表題枠は、左上に、日本婦人と火打ち式小銃をもった侍に支えられて出ている。 キャンベルは2つの異なった版があると鑑定しているが、その一つは、図版の左下隅に42番とある2折判がこれのようである。 魅力的な18世紀のイギリス地図は、ベランの地図製作の幅広い影響を示している。

No.87
ルージュ, G. L ( LE ROUGE, George Louis ) 

「 日本および朝鮮図 (CARTE DU JAPON et de la Coree) 」 
27.5×20.5(cm) 1748
【解説】: 1748年パリで、ル・ルージュの「携帯新地図帳」に発表された珍しいフランスの地図である。 この輪郭はこの時代の他のどれよりもはるかに正確度が高く、その多くをダンヴィルの影響力のある作品、とりわけ1737年の中国タタールの2枚の地図に依拠している。これは大変精度の上がった日本の図を提供している。しかし朝鮮は誇張されている。 上中央の表題の装飾は、七福神の挿し絵があるが、これはケンペル「日本の歴史」の1727年のショイツァー-ケンペル地図に初めて現れた。 この後の版は、ル・ルージュに代わって、クレビの刻印で出ている。 魅力的でまた興味深い地図で、ダンヴィルの地図製作の影響を示し、また18世紀中葉の最も精巧で正確な日本の独立した図を作りだした。

No.88-1
ホーマン, H ( HOMANN Heirs ) 

「 タタール中国地理学地図(タイトルは地図の上に横にフランス語でも表記、タタール中国および朝鮮・日本地図) (TATARIAE SINENSIS MAPPA GEOGRAPHICA.  (Title also in French across top of map: CARTE DE LA TATARIE CHINOISE /et des ROYAUMES DE COREE ET DE JAPON) 」 
39.5×50(2)(cm) 1749
【解説】: このタタール中国、朝鮮、および日本の精巧な2枚からなる地図は、H・ホーマン社の協力を得て、ドイツ人T・マイヤーによって作成され、1749年以降、ドイツニュールンベルクで、当時の2折判の多くの地図帳に発表された。 地図のタイトルは、その情報源を特にイエズス会の修道士達の報告書に依拠していることを示しているが、それは1698-99年に「タタールへの航海」を書いた、ジャルビヨン???だけでなく、またダンヴィルにも依拠したもので、彼の1737年の「中国の地図帳」に発表されたほとんど同一の2枚のタタール地図は、この地図の見本である。 西方の地図は中央アジアと中国北部地方およびモンゴルを図示している。東方の地図は、朝鮮、日本および現在の満州である。 この地図の最も注目すべき特徴は、サハリンの奇妙な形で、ここでは2つに分かれ、北の島は南カムチャッカに似ており、南部の地区は、なお北海道と混同していて、2つの島は一つである可能性がある旨注意書きがある。地図は、1643年のデ・フリースのサハリン調査に触れている。 興味深いまた詳細な大判のドイツ地図である。

No.88-2
ホーマン, H ( HOMANN Heirs ) 

「 タタール中国地理学地図(タイトルは地図の上に横にフランス語でも表記、タタール中国および朝鮮・日本地図) (TATARIAE SINENSIS MAPPA GEOGRAPHICA.  (Title also in French across top of map: CARTE DE LA TATARIE CHINOISE /et des ROYAUMES DE COREE ET DE JAPON) 」 
39.5×50(2)(cm) 1749
【解説】: このタタール中国、朝鮮、および日本の精巧な2枚からなる地図は、H・ホーマン社の協力を得て、ドイツ人T・マイヤーによって作成され、1749年以降、ドイツニュールンベルクで、当時の2折判の多くの地図帳に発表された。 地図のタイトルは、その情報源を特にイエズス会の修道士達の報告書に依拠していることを示しているが、それは1698-99年に「タタールへの航海」を書いた、ジャルビヨン???だけでなく、またダンヴィルにも依拠したもので、彼の1737年の「中国の地図帳」に発表されたほとんど同一の2枚のタタール地図は、この地図の見本である。 西方の地図は中央アジアと中国北部地方およびモンゴルを図示している。東方の地図は、朝鮮、日本および現在の満州である。 この地図の最も注目すべき特徴は、サハリンの奇妙な形で、ここでは2つに分かれ、北の島は南カムチャッカに似ており、南部の地区は、なお北海道と混同していて、2つの島は一つである可能性がある旨注意書きがある。地図は、1643年のデ・フリースのサハリン調査に触れている。 興味深いまた詳細な大判のドイツ地図である。

No.89
ドゥ=ヴォゴンディ, R ( DE VAUGONDY, Robert ) 

「 日本 (LE JAPON) 」 
16×16(cm) 1749
【解説】: 1749年パリのヴォゴンディの「ポケット地図帳」に発表された珍しいミニアチュアである。 ベランを見本とした重要な小地図で、大きくうずくまった形の歪んだ本州を図示しているが、また、たとえ100年前のデ・フリースの発見に主として基づいた見本とはいえ、北海道が描写された18世紀の数少ない地図の一つである。 このヴォゴンディの地図には、 2つの異なった描写の北海道の2つの異なる版がある。この地図はヤンソンの1652年の見本とし、江戸が北方に伸びたより広範囲の海図で、サハリンも含んでいる。スターテン島および会社の士地の西の先は図示されている。別の地図は江戸がさらに切りつめられた輪郭で図示されている。 重要で珍しいミニアチュアで、日本の北はデ・フリースに従って混乱した地理作製が続いている。

No.90
ドゥ=ヴォゴンディ, R ( DE VAUGONDY, Robert ) 

「 日本帝国。地図製作はロベール氏。特典を授与された。 (L'EMPIRE DU JAPON... PAR LE Sr ROBERT... Avec Privilege.) 」 
53.5×48(cm) 1750
【解説】: 1750年パリで刊行されたヴォゴンディの「世界地図帳」に発表された、これより前のカエムファー(1727年)およびベラン(1735年)を見本とした大判の装飾的なフランスの日本地図である。 ドゥ・ヴォゴンディ(1686-1766年)およびその息子ジル(1723-1786年)は18世紀中頃の最も精巧な地図帳を協力して作成した。1757年以降父子は「世界地図帳」の版の制作に力を合わせた。 おそらくこの地図の最大の注目すべき特徴は、津軽海峡のある日本の北の岬と、青森湾がそれまでのヨーロッパの地図のどれよりもさらに正確に描かれていることである。しかし、彼等の先駆者と同じく全体の輪郭はまだずんぐりして短縮されており、朝鮮はかなり誇張されている。 地図の装飾は、精巧な大きな中央の花形枠にあり、植物、孔雀およびパラソルの東洋風の浮き彫りを特徴としている。東洋のイメージはパゴダと寺院の2つの飾り装飾で完璧である。 この地図のその後の版は、1792年以降はC・デラマルシェにより出版され、1750年の日付が楕円形の花枠から消されて現れる。

No.91
ベラン, J. N ( BELLIN, Jacques Nicolas ) 

「 日本諸島および朝鮮半島地図 (KARTE von den EYLANDEN VON JAPON und der Halbinsel KOREA...) 」 
28.5×21(cm) 1750頃
【解説】: これはベランの中国、朝鮮、および日本海岸の一般地図で、1746年にパリで出版されたプレヴォの「旅行記集」の2巻に発表されている。 これはドイツ版で、1750年頃にシュヴァーベによってライプチッヒで出版されたものである。 この地図は、ドイツ語文付きで、再彫刻されているが、地図製作上のまた地誌的な詳細は変わっていない。

No.92
ベラン, J. N ( BELLIN, Jacques Nicolas ) 

「 18世紀の最も人気のある図の一つ「旅行記集」のための日本帝国地図。 (One of the most popular 18th Century outlines CARTE DE L'EMPIRE DU JAPON Pour servir a L'Histoire Generale des Voyages.) 」 
31.5×21.5(cm) 1752
【解説】: この日本の詳細地図は、ベランの1735-6年の初期の地図を見本としており、プレヴォの「旅行記集」に出ているが、この書は、1746年から1789年の間にパリで出版された網羅的な20巻本で、この中にベランの精緻な銅版地図を組み入れている。 この地図は日本とその都市を描いた作品の6枚のうちの1枚で、4折判版の10巻に出ている。 この地図は、緯度と経度の格子模様の上に描かれ、左上に、魅力的なロココ様式の表題がある。地図の情報源は、ベランがシャルルヴォアの「日本の歴史・地誌」に添えるために発表した1735年の地図から取られている。 興味深いまた人気のあった地図で、18世紀の後半に多数のヨーロッパ諸国語で再版された。

No.93
ダンヴィル, J. B. B ( D'ANVILLE, J.B.B. ) 

「 ダンヴィルの非常に影響を及ぼしたアジア地図 中国...スマトラ島および日本諸島を含むアジア地図第2部。 (D'Anville's most influential map of Asia SECONDE PARTIE DE LA CARTE D'ASIE CONTENANT LA CHINE... LES ISLES SUMATRA... ET DU JAPON...) 」 
97×60(cm) 1752
【解説】: この重要でまた影響を及ぼした地図は、1752年にパリで、ダンヴィルにより出版されたが、彼はおそらく18世紀のフランス地図製作者で最も影響を及ぼした1人であろう。 ダンヴィルのアジア地図製作ヘの興味は、トゥアルド、1735年の「中国地誌」の出版によって増大したが、ここには彼のデザインした中国の一部とその周辺地域が付いていた。これらの地図は後に彼の1737年の「新中国地図帳」に組み入れられた。この地図は、1655年のブラウ-マルティーニの「中国地図帳」以来、初めて中国およびその周辺地域の最新の情報を提供した。 2枚で構成された第2のアジア地図の東の一枚は、マレー半島から中国、朝鮮、日本および蝦夷島(北海道)まで広がってぃる。蝦夷の輪郭は、ここでは蝦夷が島と呼ばれ、何の情報もなく図示されていてやや不明確である。日本の3つの主な島は、レランドやケンペル等の東洋学者によって17世紀末および18世紀初頭に複製された時代遅れの不正確な日本の木版画から多くが描写された時代としては、やはり似たようなものである。 非常に重要でまた影響を及ぼした大判地図である。

No.94
ベラン, J. N ( BELLIN, Jacques Nicolas ) 

「 日本帝国地図(オランダ語の副題付き) 日本帝国地図 (CARTE DE L'EMPIRE DU JAPON... (With Dutch subtitle) KAART VAN HET KEIZERRYK JAPAN...) 」 
31.5×21.5(cm) (1752)1758
【解説】: この日本の詳細地図は、ベランの1735年の地図を見本としており、初めてプレヴォの「旅行記集」に出たが、これは、1746年から1789年の間にパリで出版された網羅的な20巻本で、この中にベランの精緻な銅版地図を組み入れている。 この地図は日本とその都市を描いた作品の6枚のうちの一つである。 プレヴォの作品の人気は大きく、まもなくこの版はオランダ語、ドイツ語で、また遅れてデンマーク語でも、印刷された。この地図はプレヴォのオランダ版の「旅行記集」(オランダ語)と題した17巻に出ているが、1758年にアムステルダムで出版されたものである。 この地図は1752年の版とは、オランダ語の副題を別にすれば、ほとんど変更はない。珍しい版である。

No.95
ベラン, J. N ( BELLIN, Jacques Nicolas ) 

「 日本帝国地図 ベラン氏の数次の外国旅行に基づく旅行記集のための (KARTE VON DEM REICHE JAPON Zur Algemeine Geschichte der Reisen Von dem Hrn Bellin...) 」 
30.5×21(cm) 1753
【解説】: ベランの1752年の日本地図の珍しいドイツ版で、プレヴォの「旅行記集」1753年頃のライプチッヒでシュワーベによって出版されたドイツ版に発表された。 地図は1735年のベランの地図を踏襲し、かなり歪んで短縮された本州を図示しており、フランス人名前のいくつかはドイツ人に代えられている。ベランの地図と同じく、精巧なロココ風の楕円形花枠が左上に見える。 18世紀の日本のイメージで最も良く知られたものの一つの珍しい版である。

No.96
ギブソン, J ― ボーエン, E ( GIBSON, J. - BOWEN, E. ) 

「 中国と日本(を含む)大タタールの北部 (The Northern Parts of Great Tartary (with) CHINA & JAPAN) 」 
7×13.5(cm) 1758
【解説】: これはおそらくこのコレクションの中では最小の地図で、1758年ロンドンで、ギブソンとボーエンの12折判の「最小の地図帳」に発表されている。 1枚は2つの地図に分かれていて、東部ロシア地図がカスピ海からタタールまでの東部ロシア地図が上部に、中国と日本の小地図(6×6.5cm)が下にある。 地図はモルの初期のイギリス地図の輪郭を使用し、ずんぐりとした本州を図示し、また北海道(蝦夷地)はアジア大陸に続いているが、必ずしも明確ではない。 18世紀後半の最小のイギリス地図帳の一つからの珍しいまた魅力的なミニアチュアである。

No.97
ベラン, J. N ( BELLIN, Jacques Nicolas ) 

「 日本諸島地図(オランダ語の副題付き) 日本諸島地図 (Carte des ISLES DU JAPON... (With Dutch subtitle) KAART van de EILANDEN van JAPAN...) 」 
28.5×21(cm) (1746)1758
【解説】: この日本の詳細地図は、ベランの1735年の地図を見本としており、初めてプレヴォの「旅行記集」に出たが、これは、1746年から1789年の間にパリで出版された網羅的な20巻本で、この中にベランの精緻な銅版地図を組み入れている。 この地図は日本とその都市を描いた作品の6枚のうちの1枚である。プレヴォの作品の人気は大きく、まもなくこの版はオランダ語、ドイツ語で、また遅れてデンマーク語でも印刷された。この地図はプレヴオのオランダ版の「旅行記集」(オランダ語)と題した17巻に出ているが、1758年にアムステルダムで出版されたものである。 この地図は1746年の版と、オランダ語の副題とオランダ文の描写の追加を別にすれば、ほとんど変更はない。 珍しい版である。

No.98
ドゥ=ヴォゴンディ, R ( DE VAUGONDY, Robert ) 

「 シベリアすなわちアジア(地域)ロシア、中国タタール国、エルーツ国、および日本諸国 (SIBERIE OU RUSSIE ASIATIQUE, TARTARIE CHINOISE, PAYS DES ELUTS ET ISLES DU JAPON...) 」 
30.5×24(cm) 1760頃
【解説】: この精巧な銅版地図は、およそ1760年頃ヴォゴンディのために、E・デュッシイが彫ったものである。 地図はノヴァヤゼムリャと中央アジアからカムチャッカ、北海道、日本、朝鮮まで広がっている。 日本の輪郭はヴォゴンディの1749年に発表された日本の小型地図に非常によく似ているが、日本の輪郭はダンヴィルを採用したものである。また興味深いのは、ヴォゴンディの1749年のミニアチュア地図の版の一つに似ていて、大きく広がった北海道が、その一部の海岸線とサハリンが連結されて北にある。デ・フリースのスターテン島は東の千島諸島の一つとして、またカムチャッカはさらに北にはっきりと図示されている。 この地図は、ロシアについては地誌的なまた地理上の詳細が盛り込まれており、これは主として18世紀の初期ピョートル大帝のヨーロッパ統一によって、多くの地図製作上の知識が生まれてきたことによる。 日本の北の地域については、なお混同した議論が引き続いているごとは、興味深い。

No.99
ボンヌ, R ( BONNE, Rigobert ) 

「 中国地図帳からの、日本諸島を含む中国帝国。 (L'EMPIRE DE LA CHINE d'Apres l'Atlas Chinois, AVEC LES ISLES DU JAPON.) 」 
44×31(cm) 1762
【解説】: ボンヌの装飾的なフランス地図は、1762年パリで、J・ラットレによって出版されたが、これはダンヴィルの「中国地図帳」(1737年)に出た一般地図を忠実に見本としており、このことがタイトルに参照として付いている。 この地図は海南島から朝鮮までの中国全体と日本の3つの主な島を図示している。北海道の南部は、おかしな「小人の島」と共に図示されている。おそらくは、アイヌ民族のことを指しているであろう。全体の描写はかなり正確になったが、北部本州はなおかなり歪んで短縮されている。朝鮮も同じように、かなり大きく描かれている。 装飾的な花枠表題が右下にあり、孔雀、パラソル、横になってキセルを吸い、小鳥を持つた東洋の人物を組み入れている。

No.100
ベラン, J. N ( BELLIN, Jacques Nicolas ) 

「 日本帝国地図 (CARTE DE L'EMPIRE DU JAPON) 」 
31×21(cm) (1763)1764
【解説】: この地図は、ベランの1763年の5巻本「小型フランス地図帳」の第3巻および1764年「小型海図帳」の第3巻に出ている。この地図は、後者の地図帳からのもので、原版の右上隅にページ番号で区別されている。 表題の花枠の文字体裁、および彫られた原版がやや大きめであることを別にすれば、全ての点において、この地図はその範囲と内容がプレヴォの「旅行記集」に出た1752年の地図と同じである。唯一の大きな違いは、やや彫りが精緻な様式となり、海岸線がより明確に描かれているように見えることである。 見本とした1752年の地図より希少で、この魅力的な地図はベランの作品が引き続き影響力を持ち、人気を博していたことを示す。