No.161
タリス, J ( TALLIS, John ) 

「 J・タリスは装飾的地図製作を復活させる 1850年頃 日本と朝鮮 (John Tallis revives decorative mapmaking c1850 JAPAN & COREA) 」 
33×25(cm) 1850頃
【解説】: 19世紀の日本地図で最も魅力的なものの一つに数えられるこの地図は、タリスの「挿絵入り地図帳」に発表され、1851年の大博覧会を記念して、初めて完全な地図帳の形で刊行された。 精緻な地図は魅力にあふれた鋼版で装飾的な縁取りと挿し絵の場面が彫られていた。 地図はペリー遠征直前の鎖国時代の終わりを迎える時代の日本を描いている。 タリスの古い権威あるものへの信頼は、その挿し絵に示されている。大きな中央の江戸(東京)の景色は、直接モンタヌス(1669年)から取られ、同じように、櫂で漕ぐ日本の平底荷船は1692年のコロネリに出ていたものである。 この地図帳の寿命は比較的短いが、原版が絶えず改訂され、更新されたのがうかがえる。地図が販売された1851年から1865年頃の間の地図帳の人気と成功は、タリスが販売を行ったロンドン、ニューヨーク、エディンバラ、ダブリンと住所が変わっていったことに反映されている。 この版は出版事項に「J&Fタリス、ロンドンおよびニューヨーク」と記され、タリスが兄弟とニューヨークに事務所を開いた1849年頃から50年のものであろう。

No.162
タリス, J ( TALLIS, John ) 

「 日本と朝鮮 (JAPAN & COREA) 」 
33×25(cm) 1850頃
【解説】: この地図は、前出のタリスの地図に全ての点で同じであるが、後に重版された地図帳からのものと思われる。ロンドンおよびニューヨーク、J・F・タリス社、と出版事項が記され、先に列挙した後の2つの住所へ移る前であろう。

No.163
ハンヅケ, F ― フレミング, C ( HANDTKE, F. - FLEMMING, C. ) 

「 中国・日本図 (CHINA UND JAPAN) 」 
39×30(cm) 1850頃
【解説】: このドイツの中国および日本の石版地図は、ハンヅケ(1815-79年)によって彫られ、ドイツ、グラガウのフレミングの会社で出版された。 この地図は、中華帝国全域を、中央アジアのバイカル湖およびチベットから、台湾、朝鮮、満州、日本およびその北の島々までを描いている。 異なる地域の政治区分は、右下に色記号表が付けられ、また地域の面積や人口の詳細を記している。日本は、日本本土と、北のアイヌ社会の北海道、南千島および南サハリンからなっている。

No.164
レヴァシール, V ( LEVASSEUR, Victor ) 

「 中国帝国および日本帝国、および琉球王国。 (Empires CHINOIS et JAPONNAIS et Royme de Lieou-Kieou) 」 
31×21.5(cm) 1850頃
【解説】: この魅力的な石版地図は、C・スミスが、F・E・ジョルジュの協力を得て彫ったもので、1850年頃パリで、レヴァシールによって出版された。レヴァシールは1845年初版のフランス地図帳で良く知られている。これはこの時代の小型4折判の世界地図帳からの地図のようである。 地図はチベットおよび中央アジアから、中国、朝鮮、日本、北海道およびサハリンまでの極東を図示している。当初の輪郭に使われた色は、北海道、サハリンおよびエトロフの南千島諸島は日本としている。地図は装飾的な華麗な縁取りで囲まれている。 興味深いまた詳細な19世紀中葉の地図である。

No.165
ダウワー, J ( DOWER, John ) 

「 中国と日本 (CHINA AND JAPAN) 」 
26×21(cm) 1850頃
【解説】: この魅力的な小地図は、ロンドンのペントンヴィルのダウワ一が作図して彫り、彼の小型4折判の地図帳の一つに発表されたもので、19世紀中葉の地図帳の出版社として有名なロンドンのオア社によって出版された。 地図は、中国とその進貢国(属国)の地域である北部インド国境およびチベットから満州北部、日本、サハリン、千島諸島までを描いている。 色区分で、南サハリンと南千島を日本領士としている。中国については、自由港と香港をはじめとするイギリス領は赤い下線が引かれている。 さらにこの地図の興味ある特徴は、中央アジアから黄海までの領士の断面図が地図の下に沿って出ている。

No.166
作者不明 ( Anonymous ) 

「 無題:日本帝国 (Untitled: EMPIRE DU JAPON) 」 
20×22(cm) 1850頃
【解説】: この詳細なしかし作者名のない無題の日本諸島の地図は、1840-50年頃のものと思われる。おそらくフランスの地理の地名辞典か、この時代の航海記に出たものであろう。 地図は朝鮮沿岸と満州の一部および、北海道や南千島の描かれた日本諸島を図示している。北海道の詳細は非常に限られているが、日本本土については、主な都市、地域区分および地誌的な特徴が記されている。おそらく最も面白いのは、長崎から江戸までの街道が点線で明らかにされていることである。

No.167
フィッリプ, Gと息子 ( PHILIP, George and son ) 

「 朝鮮と日本 (COREA AND JAPAN) 」 
63×50(cm) 1851
【解説】: 魅力的な19世紀中葉の日本と朝鮮の地図で、1814年のトムソンの「新一般地図帳」の地図を見本としている。リヴァプールのフィッリプとその息子の会社のために、エディンバラでJ・ゲッラトリによって出版された。 この地図は地誌的なまた地図製作上の詳細はトムソンの地図を修正なしに複写して、また66の地域区分は、目立つ独自の色で魅力的に区別されている。 この後のトムソンの刊行した地図と同様に、左下に、ホール船長(艦長)の1816年の「朝鮮西海岸ヘの航海」からの抜枠がある。 興味深いまたやや時代遅れの後期のトムソンの複写である。

No.168
ゴール&イングリス ( GALL & INGLIS ) 

「 ゴール&イングリスの中国と日本の地図... (GALL & INGLIS' MAP OF CHINA & JAPAN...) 」 
56×45(cm) 1852頃
【解説】: 中国と目本の精緻な一般地図で、スコットランドのゴール&イングリス出版社が、その1852年頃出版の「エディンバラ(帝国??) 地図」の中に発表した。 地図はチベット東部およびゴビ砂漠から朝鮮、日本へ広がっていて、北海道はわずかに南端のみである。日本は、まだペリー提督の率いるアメリカの「黒船」による群島の開国直前のやや時代遅れの輪郭で描かれている。 後期の石版地図としては、比較的珍しい一品である。

No.169
S. D. U. K ― コックス, G ( S. D. U. K. - COX, G. ) 

「 日本帝国 (EMPIRE OF JAPAN) 」 
35×43(cm) 1853
【解説】: 興味深い19世紀前半の日本地図で、初版は実用知識普及協会後援の下に、ボールドウィン&クラドックによって1835年に地図帳の形で出版された。 この作品の人気は非常なもので、1860年代の初めまで、多数のロンドンの出版社から再版された。この地図は実質的な変更はないが、重版には条約港の項目が追加されたこれは1853年のG・コックス出版の版である。

No.170
モーリー, W. L ― ベント, S ( MAURY, W .L. - BENT, S. ) 

「 日本諸島地図 シーボルトの地図に、アメリカ合衆国の日本探検およびその他当局によるわずかの追加と訂正がある... (MAP of the JAPAN ISLANDS copied from von Siebolds with slight additions & corrections by the US Japan Expedition and other authorities...) 」 
36×31(cm) (1855)1856
【解説】: この小型ではあるが詳細な日本諸島地図は、「1852、1853、1854年のアメリカ小艦隊の中国沿岸海域(China Seas 東シナ海、南シナ海、黄海)および日本ヘの遠征物語」に出ており、 1856年に初めてワシントンで出版された。 この地図は、ペリーの「黒船」の到来した時代の日本の地誌的記録を提供するものであるが、現実には「日本帝国」と題してシーボルトが作成した1840年の大判地図および1852年ペリー遠征のまさにその時に出版された「日本」に基づいている。興味深いのは、シーボルトの地図に採用されている多くの情報は、代わるがわる最上徳内および伊能忠敬をはじめとする日本国内の情報源から出ていることである。 地図は、北海道および南千島、さらに朝鮮沿岸と満州の一部を含む日本全体を描き、諸島の沿岸の特徴を詳細に示しているが、これはシーボルトの地図を更新するためのペリー遠征の調査結果の一部を含んでいる。これよりさらに大判の地図で、日本をさらにもっと大縮尺で図示したものが「物語」に出ている。 モーリー大尉は、また後の1859年から1862年にアメリカ海軍が作成した日本海図でも知られている。

No.171
モーリー, W. L ― ベント, S ( MAURY, W .L. - BENT, S. ) 

「 ペリー遠征からの大判海図 1856年 中国沿岸および日本諸島沿岸海図 マリアナ諸島およびフィッリピン諸島の一部を含む... (The large chart from Perry's Expedition 1856 CHART OF THE COAST OF CHINA AND OF THE JAPAN ISLANDS...) 」 
103×106(cm) (1855)1856
【解説】: この精緻で大判の海図は、ペリー提督の指揮のもとアメリカの日本遠征物語の付録として出版された。遠征の完全な報告書の初版は1856年である。 1853-54年、ペリーの2回の遠征は、17世紀以来の鎖国時代の終わりと、国際的貿易と通商へ日本を開国する画期となった。1854年3月に批准された日米友好条約は1855年以降下田と函館の開港を、また下田にアメリカ領事館の設置を可能にした。 合衆国海軍のモーリー大尉およびベントの描いた地図は、東アジア全体を、フィッリピン北部、中国沿岸全部、アジア東部、日本、北海道および千島のエトロフ島にいたるまでを図示している。 地図は、内陸部にかんしての詳細は殆どない。この度の詳細な調査には、 1854年5月函館港ヘの遠征隊の巡回を終えて、初めて北海道の多くの調査を含んでいる。 非常に重要で影響力を及ぼした地図で、日本の鎖国時代の終焉を画したペリー遠征隊の重要な成果の一つである。

No.172
コルトン, J. H & C o. ( COLTON, J. H. & Co ) 

「 日本の本州、九州、四国、蝦夷、および日本の千島諸島... (JAPAN NIPPON, KIUSIU, SIKOK, YESSO AND THE JAPANESE KURILES...) 」 
40×32(cm) 1855頃
【解説】: この見事なアメリカの石版地図帳のシリーズものは、1850年代および1860年代に、ニューヨークのコルトン、ジョンソン、ウォードおよびブラウニングの会社によって出版が始まった。 これらの地図帳は、その入念な縁取りの装飾の様式においても、また一つの版が次の版へと複写されていった地誌的な事項においても類似していた。 「一般地図帳」と題しコルトンが出版した世界地図帳は、 1854年に初版が出た。この地図は、出版者コルトン一家の創始者J・H・コルトン(1800-1893年)の銘がある。 この地図は日本全体を図示して、左上に北海道の挿入図と右下に長崎の挿入図がある。地図は情報源を「合衆国の日本遠征隊の成果を加味したシーボルトの地図」と謳っている。また1855年の登録日付があるが、これはペリーの報告書が最初に出版される1年前である。 地図は魅力的な装飾縁取りに囲まれているが、これがこの時代のアメリカ地図と確認される顕著な特徴である。 シーボルトおよびアメリカ日本遠征隊の影響を示す興味深い詳細地図である。

No.173
アントワーン, L ( ANTOINE, Louis ) 

「 中国および日本。パリ。L・アントアーヌ編、ノイエル通り70 (CHINE ET JAPON. Paris Impr. Louis Antoine, Rue des Noyers 70) 」 
28.5×22(cm) 1855頃
【解説】: この魅力的な小型の石版地図は、フランスのパリで、アントワーンによって出版されたもので、1854年から1874年までに彼が出版したアンドリヴォ-グヨーン地図帳の一つに発表したものであろう。 地図はチベットおよび中央アジアから、中国、朝鮮、日本、北海道およびサハリンまでの極東を図示している。当初の輪郭をかたどる色は、北海道、サハリン全部およびエトロフの南千島諸島を日本として示している。右下隅の魅力的なさし絵には、広東の港に面した西洋風の商館が描かれている。 興味深いまた、珍しいフランスの石版地図である。

No.174
タリス, J ( TALLIS, John ) 

「 日本と朝鮮 (JAPAN & COREA) 」 
33×25(cm) 1855頃
【解説】: この地図は、すでにこのコレクションのりストに挙げられたタリスの地図に、あらゆる点で同じであるが、重版された地図帳からのもののようで、タリス社ロンドン印刷出版社というインプリントがある。

No.175
チヴェリ, G ( CIVELLI, Guiseppe ) 

「 中華帝国と日本 (IMPERI CHINESE E GIAPPONESE) 」 
38×27(cm) 1855頃
【解説】: このP・ベッツェラにより彫られた石版地図は、1855年頃大判の4折判地図帳としてイタリア、ミラノでチヴェリによって出版された。チヴェリについては殆ど知られておらず、彼の唯一の注目される仕事は、1853年に出版された詳細な大判の28枚のイタリア地図である。 この地図はチベットおよび中央アジアから、中国、朝鮮、日本、北海道およびサハリンまでの極東を図示している。当初の輪郭をかたどる色は、北海道、南サハリンおよびエトロフの南千島諸島を日本として示している。 興味深いまた詳細な19世紀中葉の地図である。

No.176
モース & ガストン ( MORSE & GASTON ) 

「 日本 (JAPAN) 」 
15.5×12.5(cm) 1856頃
【解説】: この精緻な石版地図は、モース&ガストン出版社が1856年頃に制作した珍しいミニアチュアの「東洋の地図帳」のために、ニューヨークで出版された。 地図は、日本全体を図示していて、県区分と地方区分があり、中央上に北海道の大きな挿入図がある。 ペリーの遠征後まもなく出版された稀少で珍しい小さな地図である。

No.177
S. D. U. K ― スタンフォード, E ( S. D. U. K. - STANFORD, E. ) 

「 日本帝国 (EMPIRE OF JAPAN) 」 
35×43(cm) 1857頃
【解説】: 興味深い19世紀前半の日本地図で、実用知識普及協会後援の下に、ボールドウィン&クラドックによって初めて1835年に完全な地図帳の形で出版された。 この地図は、以前に出たボールドウィン&クラドック版と殆どの点で同じであるが、およそ1857年以降、スタンフォードがこの地図帳の出版を引き継いだ。 重版には、ペリー遠征に引き続いて、イギリスが交渉を終えたばかりの条約港の項目が含まれている。 19世紀中葉の人気のあった広く普及した日本地図である。

No.178
ウェラー, E ( WEILLER, Edward ) 

「 日本帝国 (THE EMPIRE OF JAPAN...) 」 
30×42.5(cm) 1856
【解説】: この詳細な石版地図は、ウェラーの1858年の「週刊特派員地図帳」に発表されたものである。地図は、今詞まで、最も正確なものの一つで、北海道を含めて全ての島々の輪郭は正確に図示されている。 アジア大陸も、サハリン島や満州のアムール川沿いの新たに決定されたロシア-中国国境と共に図示されている。サハリンは南北が、ロシアと日本で分割されて示されている。 興味深いヴィクトリア中期のイギリス地図である。

No.179
オリファント, L ( OLIPHANT, Laurence ) 

「 オリファントの日本 1859年 日本帝国 (Oliphant's Japan 1859 EMPIRE OF JAPAN) 」 
23×21(cm) 1859
【解説】: この質素に彫られた地図は、スコットランドのジョンストン社によるもので、「エリジン卿の秘書オリファントの1857、58、59年のエリジン卿の中国および日本ヘの使節団物語」に記載されたもので、1859年エディンバラで、W・ブラックウッドと息子の会社により、 2巻本として出版された。 オリファントは、エリジン卿の個人秘書で、秘書としての特別の才能よりも、エリジンとの家族的縁故で秘書の地位を得て、世界中の血沸き肉踊る様々な経験をした人物である。彼自身の報告によると、「普通でない所に出かけ、誰もやったことのない事をする時に役立つ人で」あった。その点では、日本ヘの使節団は大いに適していた。1858年T・ハリスが交渉を終えた日米条約のすぐ後を追って、使節団の目的はイギリスも同様の条約を批准することであった。条約は1858年8月に批准され、自由貿易と日本にイギリス人の居住地を作ることができるようになった。それは19世紀の産業大国と日本の間の永続的な関係の始まりであった。 19世紀の初の日本ヘのイギリス通商使節団の興味深いまた詳細な記録である。

No.180
ロビクエット, A ( ROBIQUET, Aime ) 

「 日本海および朝鮮周辺海地図 (CARTE DES MERS DU JAPON ET DE LA KOREE...) 」 
100×66(cm) 1859
【解説】: この大判の中国北部、朝鮮、満州、日本および北海道沿岸の海図は、1859年フランスの水路測定師ロビクエットによって、パリで出版された。 黄海の詳細な沿岸情報および水深測量が提供されており、また日本の詳細な沿岸も示されている。本州南西沿岸は図示が不十分で、また新たな英語名が多数の特徴的な沿岸につけられたが、これは1850年代末、イギリス条約港開港後のイギリスの調査の結果であろう。 詳細な挿入図は、1852年8月フランスのE・ムウシェズ(1824-1892年)大尉によって調査され、現在のウラディオストックのすぐ南にある満州沿岸のダンヴィルの湾を描いている。