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No.121 ベラン, J. N
(
BELLIN, Jacques Nicolas
)
「
日本帝国地図
(KORTOVER RIGET JAPON...)
」
31×21(cm)
1790頃
【解説】:
この非常に珍しいデンマークの地図は、プレヴォの「旅行記集」に発表された、ベランの1752年の小型地図を後にデンマークで彫ったものである。
プレヴォ全集の人気は大きくて、多くのヨーロッパ語で広く再発行されたが、このデンマーク版はコペンハーゲンで1790年頃に出版されたもので、最後でまた最も好奇心をそそるものである。
I・ハアスの彫ったこの地図は、プレヴォ版のベランの原図を、ほとんど厳密に踏襲し、地図製作または地誌的な変更は全く加えていない。そしてベランの作品の顕著な特徴である表題のロココ調の装飾をよく保っている。
非常に珍しい数少ない版である。
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No.122 セイヤー, R ― ローリー& ウィットル
(
SAYER, R. - LAURIE & WHITTLE
)
「
7つの主な地域に分割された日本帝国図、朝鮮も含む。
(THE EMPIRE OF JAPAN DIVIDED INTO ITS SEVEN PRINCIPAL PARTS...)
」
63.5×48(cm)
(1790)1794
【解説】:
日本と朝鮮の大判で詳細な2折判地図は、1790年ロンドンで出版されたセイヤーの「一般地図帳」に初めて発表された。これは、1794年日付のローリーとウィットルによる初版である。
表題は、その情報源を「ケンペルとポルトガル人」と記しているが、セイヤーや、ローリーおよびウィットルの発行した多くの地図は、ダンヴィルとヴィゴンディによる18世紀フランスの地図から直接取られ、またこの地図の見本は、ヴィゴンディの1750年の日本地図であることが明白である。
朝鮮は全体が図示されているが、実際よりかなり大きくまた過度に強調されている。日本の主な3つの島は、7つの大きな地方に分けて描かれ、北海道は北の方に南部の先端が図示されている。
魅力的なまた詳細な18世紀のイギリス地図は、18世紀前半のフランスの地理製作者達の影響力が広範に行き渡っていたことを示すものである。
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No.123 ドゥ=ヴォゴンディ, R
(
DE VAUGONDY, Robert
)
「
日本帝国
(L'EMPIRE DU JAIPON)
」
53.5×48(cm)
(1750)1792
【解説】:
これは、1750年パリで刊行されたヴォゴンディの「世界地図帳」に初めて発表された彼の重要で魅力的に彫られた日本地図の重版である。
この重版は、1790年代の始めにドゥ・ヴォゴンディを引き継いだC・F・デラマルシェ(1740-1817年)によるもので、1750年版の中央にある楕円形花枠の表題から1750年の日付が取り除かれた以外は、全ての点で同じである。
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No.124 ダン, S
(
DUNN, Samuel
)
「
地方(省)別に区分された中国と日本諸島...
(CHINA DIVIDED INTO ITS GREAT PROVINCES and the ISLES OF JAPAN...)
」
44.5×31(cm)
1794
【解説】:
この魅力的な18世紀末の地図は、数学者でロンドンのチェルシーの先生であったダンによって彫られた。
この地図の初版は1774年のダンの「世界体系の新地図帳」の中に出ており、後に、この地図と同じ1794年日付で、ローリーとウィットルの会社から再発行された。
地図の情報源は、以前のフランス地図から直接引用され、とりわけ、ダンヴィルの中国(1737年)とアジア(1752年)からで、これは18世紀の極東地図の中では最も影響力のあった地図である。
地図には、過度に大きな朝鮮と、日本は主な3つの島と、北海道の南端が描かれている。中国は「省別に分けて」図示されている。
興味深い地図で、イギリスにおいて、18世紀末までダンヴィルの地図が引き続いて影響力があったことを示すものである。
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No.125 ラ=ペルーズ
(
LA PEROUSE, J. F. G, Comte de
)
「
ラ・ペルーズはデ・フリースの誤りに終止符を打つ 1797年
1787年の諸発見による一般地図
(La Perouse lays to rest De Vries'errors 1797
CARTE GENERALE DES DECOUVERTES faites en 1787...)
」
68.5×59(cm)
1797
【解説】:
この精巧な銅版地図は、1797年のラ・ペルーズの世界一周航海のフランス語版の地図帳に発表されたものである。
ラ・ペルーズの探検は、18世紀後半の多くの偉大な太平洋航海の中の一つに数え上げられる。その主要な地図製作上の成功は、北太平洋のアジア側のほとんどを海図にしたことであり、実にこの地図はフィリッピン諸島のマニラから朝鮮およびカムチャッカまでの航路を図示している。ラ・ペルーズは1643年、デ・フリースのオランダ探検の誤りを正した最初の西洋人地理製作者であった。今なお彼の名のついたサハリンと北海道の間の海峡を帆走した最初の西洋人として、ラ・ペルーズはサハリン島の詳細な情報を提供した。千島諸島の奇妙な歪曲、とりわけデ・フリースの「会社の土地」は、ラ・ペルーズがカムチャッカへ航海を進めて最終的に正された。この最新の海図と航海日誌は、航海中ロシア語の通訳をした青年F・ルセップに託されて、陸路フランスへ送られた。この探検隊はその後消息が絶え、その残骸は30年ほど後に、太平洋のヴァニコロ島で発見された。
重要な地図で、北太平洋のアジア側の海岸と様々な島の正確な実写を提供した最初のものである。
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No.126-1 ラ=ペルーズ
(
LA PEROUSE, J. F. G, Comte de
)
「
1787年中国およびタタールの海域における諸発見を記した海図でブッソールおよびアストロラーベによる...
(CHART OF DISCOVERIES made in 1787 in the SEAS of CHINA and TARTARY by the Boussole and Astrolabe...)
」
49.5×37.5(cm)
1797
【解説】:
この精巧な銅版地図は、1798年ロンドンで出版されたが、これは1797年ラ・ペルーズの世界一周航海の2枚のフランス語版の縮小サイズ版である。
ラ・ペルーズの探検は、18世紀後半の多くの偉大な太平洋航海の中の一つに数え上げられる。その主要な地図製作上の成功は、北太平洋のアジア側のほとんどを海図にしたことであり、実にこの地図はフィリッビン諸島のマニラから朝鮮およびカムチャッカまでの航路を図示している。ラ・ペルーズは1643年デ・フリースのオランダ探検の誤りを正した最初の西洋人地理製作者であった。今なお彼の名のついたサハリンと北海道の間の海峡を帆走した最初の西洋人として、ラ・ペルーズはサハリン島の詳細な情報を提供した。千島諸島の奇妙な歪曲とりわけデ・フリースの「会社の土地」は、ラ・ペルーズがカムチャッカへ航海を進めて最終的に正された。この最新の海図と航海日誌は、航海中ロシア語の通訳をした青年ルセップに託されて、陸路フランスへ送られた。この探検隊はその後消息が絶え、その残骸は30年ほど後に、太平洋のヴァニコロ島で発見された。
重要な地図で、北太平洋のアジア側の海岸と様々な島の正確な実写を提供した最初のものである。
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No.126-2 ラ=ペルーズ
(
LA PEROUSE, J. F. G, Comte de
)
「
1787年中国およびタタールの海域における諸発見を記した海図でブッソールおよびアストロラーベによる...
(CHART OF DISCOVERIES made in 1787 in the SEAS of CHINA and TARTARY by the Boussole and Astrolabe...)
」
49.5×37.5(cm)
1797
【解説】:
この精巧な銅版地図は、1798年ロンドンで出版されたが、これは1797年ラ・ペルーズの世界一周航海の2枚のフランス語版の縮小サイズ版である。
ラ・ペルーズの探検は、18世紀後半の多くの偉大な太平洋航海の中の一つに数え上げられる。その主要な地図製作上の成功は、北太平洋のアジア側のほとんどを海図にしたことであり、実にこの地図はフィリッビン諸島のマニラから朝鮮およびカムチャッカまでの航路を図示している。ラ・ペルーズは1643年デ・フリースのオランダ探検の誤りを正した最初の西洋人地理製作者であった。今なお彼の名のついたサハリンと北海道の間の海峡を帆走した最初の西洋人として、ラ・ペルーズはサハリン島の詳細な情報を提供した。千島諸島の奇妙な歪曲とりわけデ・フリースの「会社の土地」は、ラ・ペルーズがカムチャッカへ航海を進めて最終的に正された。この最新の海図と航海日誌は、航海中ロシア語の通訳をした青年ルセップに託されて、陸路フランスへ送られた。この探検隊はその後消息が絶え、その残骸は30年ほど後に、太平洋のヴァニコロ島で発見された。
重要な地図で、北太平洋のアジア側の海岸と様々な島の正確な実写を提供した最初のものである。
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No.127 アロウスミス, A
(
ARROWSMITH, Aaron
)
「
日本帝国
(EMPIRE OF JAPAN)
」
40×24(cm)
1807
【解説】:
魅力的な19世紀初頭の地図は、「アロウスミス氏の監修の下に描かれ」ローリーによって彫られ、1807年ロンドンで、ロングマン、ハースト、リーズおよびオルムの会社によって出版された。
引き合いに出されたアロウスミス氏は、A・アロウスミス(1750-1833年)で、18世紀末および19世紀初頭、地図作成者のイギリス名門会社の一つを創立した。この地図が、1724年に創立され現在なお一流のイギリスの出版社であるロングマン社によって当然なことながら出版されたというのは興味深い。
日本は、18世紀末の改良された輪郭である、1790年のセイヤー地図を踏襲している。しかし本州は、特に北の地方が、なおかなり短縮され歪んだ輪郭である。国は地方と地域に区分されている。朝鮮はなお大きく過度に強調されている。日本の輪郭は、編状線の海が諸島を取り囲み、独特の彫りによって強調されている。
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No.128 ピンカートン, J
(
PINKERTON, John
)
「
日本
(JAPAN)
」
65×50(cm)
1809
【解説】:
精巧な諸島(島々)の大判地図は、1809年にロンドンで、キャデルおよびデイヴィーズの会社と、ロングマン、ハースト、リーズおよびオルムの会社の両方の会社によってJ・ピンカートン(1758-1826年)の「現代地図帳」のために出版された。ピンカートンはエディンバラの地理学者でまた出版者であった。「現代地図帳」は1809年から1814年までに部分的に出版され、1815年に完全な地図帳の体裁で出版された。このことが、この初期の刊行はロンドンで印刷されたことの理由かもしれない。
1814年のトムソン地図と同様に、しかしもっとまれなことに、3つの主要な島の全部と、かなり大きな朝鮮とを図示していて、北海道の南岸の輪郭は不完全に示されている。
ニールによって彫られた地図は、全般の輪郭は、特に北東部分の本州の湾曲はさらに正確になったが、しかしこれは地図が幾分傾斜した表現となり相殺されている。66の地域は区切られ主な都市は図示されている。
魅力的な詳細な19世紀初期の地図である。
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No.129 ドゥ=ヴォゴンディ流儀
(
After: DE VAUGONDY, Robert
)
「
記録にないドイツのミニアチュア判 1811年
ロベールの図面による7地方に区分された日本地図。ワイマール。地理学会発行
(An unrecorded German miniature 1811
Charte von JAPAN mit seinen VII Provinzen nach Robert's Entwurfe. Weimar in verlag des Geogr.)
」
20.5×18(cm)
1811
【解説】:
ドゥ・ヴォゴンディの1750年パリで初めて出版された「世界地図帳」の大判2折判地図の非常に興味あるミニアチュアのドイツ語の複写である。この地図は1811年ドイツのワイマールで出版されたようである。
ロベールの地図は、デラマルシェによる数回の重版や1778年ヴェネチアで出版されたイタリアの複写によってさらに普及した。
しかし、この地図は、どの主要な地図製作文献あるいは参照文献にも記録されていないので、ナポレオン時代に、フランスの地図帳や地図製作の資料が、中央ヨーロッパ、東ヨーロッパ全域に、ナポレオンの「大陸制度」統治が広く行き渡ったことで、中央ヨーロッパでも入手可能になったことの産物であろう。
地図はドゥ・ヴォゴンディの1750年の地図の全ての詳細を変更せず複写し、この時代のヨーロッパ地図に通常図示される7つの地方区分と、66の地域を明確に記している。これと非常に類似したミニアチュア地図が、翌1812年プラハでも出版されている。
興味深い、また非常に珍しい一品で、ロベールの作品がヨーロッパで普及したことおよび19世紀初期においても時代遅れの情報がヨーロッパの地図製作者によってなお使用されていることを示すものである。
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No.130 ドゥ=ヴォゴンディ流儀
(
After: DE VAUGONDY, Robert
)
「
ロベールの図面による7地方に区分された日本地図。1812年、プラハ
(Charte von JAPAN mit seinen VII Provinzen nach Robert's Entwurfe. Prag 1812.)
」
20.5×17.5(cm)
1812
【解説】:
ドゥ・ヴォゴンディの1750年パリで初めて出版された「世界地図帳」の大判2折判地図の非常に興味あるミニアチュアのドイツ語の複写である。この地図は1812年の日付でプラハの刻印がある。
ロベールの地図は、後にデラマルシェが刊行した数版や、1778年ヴェネチアで出版されたイタリアの複写によってさらに普及した。
しかし、この地図は、どの主要な地図製作文献あるいは参照文献にも記録されていないので、ナポレオン時代に、フランスの地図帳や地図製作の資料が、ヨーロッパ全域に、ナポレオンの「大陸制度」統治が確立されて、中央、東ヨーロッパでも入手可能になったことの産物であろう。
地図はドゥ・ヴォゴンディの1750年の地図をそのまま複写したもので、この時代のヨーロッパ地図に通常図示される7つの地方区分と、66の地域を明確に記している。
興味深い、また非常に珍しい一品で、ロベールの作品がヨーロッパで普及したことおよび19世紀初期においてもなお、時代遅れの情報をヨーロッパの地図製作者が日本を描くために使用していることを示すものである。
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No.131 ラピ, P
(
LAPIE, Pierre
)
「
中国帝国および日本
(EMPIRE CHINOIS ET JAPON)
」
30×22(cm)
1812
【解説】:
この魅力的な中国および日本のフランス地図は、ラピの1812年の「古典世界地図帳」のために、フランス人彫工ジラルドンによって描かれ、J・B・M・シャムンによって彫られた。
地図そのものは、中華帝国を中央アジアおよびチベットからモンゴルおよび満州に至るまで図示している。日本諸島は、北海道およびサハリン島とともに描かれている。北海道は「蝦夷またはマツマイ」とされている。群島の主な都市は明らかにされている。
表題は右下に、魅力的な葡萄葛模様の枠にパゴダやジャンク帆船と東洋の戦士を背景に見える。
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No.132 ミルバーン, W
(
MILBURN, William
)
「
日本諸島
(ISLANDS OF JAPAN)
」
26.5×21(cm)
1813
【解説】:
この素晴らしい日本と朝鮮の銅版地図は、ミルバーンの珍しい地理書で、東インド諸島、中国、および日本の地理学的な記述「東洋の通商」に含まれている。
ミルバーンは東インド会社の社員で、会社の仕事でインドと中国へ幅広く旅行し、これらの質素に彫られた明瞭な地図と共にこの地域の交易および通商の詳細な記述をしている。
ミルバーンの本は1813年にロンドンで、ブラックおよびペリィによって出版された。
珍しい19世紀初めの銅版地図である。
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No.133 トムソン, J
(
THOMSON, John
)
「
朝鮮と日本
(COREA AND JAPAN)
」
63×50(cm)
(1814)1820
【解説】:
魅力的な19世紀初めの日本と朝鮮の地図で、1814年以降エディンバラで出版されたトムソンの「新一般地図帳」の中に発表された。
1809年のピンカートンの地図に、様式と詳細は似ているが、しかし諸島の全体の輪郭は、特に東北がよい。朝鮮はなお大きすぎてまた強調され過ぎている。
これは、ホールの1816年の「朝鮮の西海岸ヘの航海」からの手短な描写が左下の隅にありそれに朝鮮の西海岸にいくつかの島が追加された同じ版の第2版の地図である。この第2の方の版は後にG・フィリップによって、彼の1851年の地図に複写された。
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No.134 カークウッド, R
(
KIRKWOOD, Robert
)
「
日本
(JAPAN.)
」
35×28(cm)
1817
【解説】:
この魅力的な銅版日本地図は、1817年エディンバラで出版されたカークウッドの「一般地図帳」のために、カークウッドが彫り出版したものである。
カークウッドは1815年のセントヘレナの地図と1817年の2枚の詳細なエディンバラ地図で知られている。彼は1818年この地図帳の刊行後、まもなく死亡した。
この「一般地図帳」は世界の全ての地域の44枚の地図を所載し、この日本の魅力的な地図は、多くを18世紀のダンヴィルとル・ルージュの地図から引用している。朝鮮の東部の海岸と日本の3つの主な島が描かれている。カークウッドはダンヴィルとル・ルージュが初めて提起した本州の北東の曲線を継承している。地方の区分と各地方の主な都市は図示されている。
興味深いまた希な地図で、18世紀フランスの地図製作の時代遅れの情報源の影響が続いていることを示している。
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No.135 ロッシ, L
(
ROSSI, Luigi
)
「
日本
(GIAPPONE)
」
25×20(cm)
1820
【解説】:
単純で明瞭に彫られたイタリア地図は、よく知られたフランスの地図作成者P・ビュアーシュの甥にあたるJ・N・ビュアーシュによって、1820年頃、パリで出版された日本の3つの主な島を描いたフランス地図から忠実に複写されている。
装飾のない単純な円形の花枠は中央上にあり、一方全ての主要都市および地方は明瞭に標されている。諸島の輪郭は、ダンヴィルの1737年のタタール地図船よび1752年のアジア地図、さらにル・ルージュの1748年の日本地図から多くを取り入れている。
この地図は、ミラノのボルディガ兄弟の会社で彫られ、1820年ミラノでロッシが出版した「新世界地図帳」に発表された。
19世紀の珍しい銅版である。
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No.136 ビュアーシュ, J. N
(
BUACHE, Jean Nicolas
)
「
日本
(JAPON)
」
25×20(cm)
1820頃
【解説】:
単純で明瞭に彫られた日本の3つの主な島のフランス地図は、よく知られたフランスの地図作成者P・ビュアーシュの甥にあたるJ・N・ビュアーシュによって、1820年頃、パリで出版された。
装飾のない単純な円形の花枠は中央上にあり、一方全ての主要都市および地方は明瞭に標されている。諸島の輪郭は、ダンヴィル1737年のタタール地図および1752年のアジア地図、さらにル・ルージュの1748年の日本地図から多くを取り入れている。
この地図のイタリア版は、ミラノのF・ボルディガにより彫られ、1820年ミラノでロッシにより出版された。
19世紀の珍しい銅版である。
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No.137 ブリュ, A. H
(
BRUE, Adrien Hubert
)
「
中国帝国および日本の一般地図
(CARGE GENERALE de L'EMPIRE CHINOIS ET DU JAPON...)
」
51×36(cm)
1821
【解説】:
この精巧に彫られた詳細な中国および日本地図は、1821年パリで、ブリュ(1786-1832年)によって出版された。1816年初版の彼の「世界地図帳」に出ているが、しかし、この地図は1821年の日付がある。
この時代のフランス地図と同じように、北部インドとチベットから中国のモンゴル地方の北部区域までと満州まで広がっている。アジアの東海岸は海南島から日本、北海道、南千島諸島およびサハリンまで図示されている。サハリンは中国領土の一部として、また千島諸島は日本の領土の一部として示されている。
この地図はまた、全てのブリュの地図を本物と証明し、この時期パリで問題であった薯作権侵害を防止するため、ブリュの特別のスタンプが押されていることでも興味深い。
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No.138 タルデュー, A
(
TARDIEU, Ambrose
)
「
中国および日本地図
(CARTE DE LA CHINE ET DU JAPON)
」
56×41(cm)
1821
【解説】:
中国と日本の魅力的な2折判の銅版地図は、1821年のL・アルプの「旅行記集」のために、タルデューによって出版された。
地図は、中国全土および朝鮮、日本の3つの主な島を図示している。北海道は蝦夷島としてその南端のみが記されている。3つの島の輪郭は、特に本州北部の形と方位が顕著であるが、いっそう正確になった。
魅力的な渦巻き模様の表題が右下にあり、その下にフランスマイルと海里の縮尺がある。
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No.139 アロウスミス, S
(
ARROWSMITH, Samuel
)
「
日本
(JAPAN)
」
29.5×23(cm)
1823
【解説】:
アロウスミスによって1823年ロンドンで出版された精巧に彫られた地図である。製作者サミュエルは、18世紀末および19世紀初頭に最も影響力のあるイギリスの地図製作一家に数え上げられた創設者A・アロウスミスの息子である。父アアロンは1798年に刊行された9枚からなる太平洋の地図の極東地図作成で最も良く知られている。
この小型の4折判地図は、この時代に、サミュエルとその兄弟アアロン・ジュニアによって出版された多くのアロウスミス地図帳の一つに出ている。
日本は、ピンカートンおよびトムソンによって使用された1809年と1814年の輪郭を見本としており、本州の輪郭が幾分改良され、まだ東北が強調され過ぎてはいるが、湾曲した北東の弧を描き前よりは正確に図示されている。
1820年代の魅力的なイギリスの鋼版彫りの地図である。
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No.140 アロウスミス, A ― タナー, H. S
(
ARROWSMITH, A. - TANNER, H.S
)
「
日本帝国
(EMPIRE OF JAPAN)
」
40×24(cm)
1825頃
【解説】:
魅力的な19世紀初期の地図はタナーによって彫られたもので、これは1807年のA・アロウスミスの地図の再発行で、タナーが彫工であるとのインプリントのみがある。フィラデルフィアのH・S・タナーは、いくつかの精巧なアメリカ州地図帳で良く知られているが、特にその1813-23年の「新アメリカ地図帳」は有名である。
日本は18世紀末に向上した1790年のセイヤーの地図の輪郭を踏襲しているが、なおかなり本州は短縮されて、特に北の地域が歪んだ輪郭である。国は地域ごとに区分され本州は5つの地方に分かれている。朝鮮はかなり強調されて描かれている。
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