No.41
モルデン, R ( MORDEN, Robert ) 

「「日本および蝦夷地方の最新図」 (JAPONAE ac TERRAE IESSONIS Novissima Descriptio Robt Morden) 」 
12.5×10.5(cm) 1680
【解説】: 風変わりな英語版のミニアチュア地図は、初めて1680年にロンドンで出されたモルデンの魅力的なミニアチュア地図帳「修正版地理」に発表された。 モルデン(1703年死去)は、その精緻なミニアチュアのイギリス郡地図のトランプや1695年以降W・カムデンの「ブリタニア」版に納められたイギリスの郡の小型2折判地図の精巧なシリーズ物で最も良く知られている。 1655年のブラウ-マルティーニ地図を見本として、モルデンは、朝鮮半島から北へ湾曲した海岸線を持つ蝦夷地が、東アジア半島であることを図示した多くの17世紀の地図製作者の一人である。彼は、スターテン島(イツルップ)のある千島諸島のデ・フリースの輪郭に固執し、またデ・フリースの海峡をしるしている。 本州の7地方の区分が、右下の文字記号で示されている。タイトルは上中央に、魅力ある渦巻きの飾り枠の中に出ている。 魅力的で珍しい17世紀後期の英語版ミニアチュアである。

No.42
タヴェルニエ, J. B ( TAVERNIER, Jean Baptiste ) 

「 日本諸島地図(挿入図) トンキン地図 (A MAP OF THE ISLES OF IAPON (inset) MAP OF TUNQUIN) 」 
52×36(cm) 1679
【解説】: タヴェルニエの英語版に現われたこの珍しい地図は、初めて1680年にロンドンで、E・エヴェラルおよびM・ピットによって、「J・B・タヴェルニエの物語集」と題して出版された。 地図製作上また地理的詳細は、ほとんどの点でフランス地図と同一であるが、ここに、ピットは2枚の日本とトンキンの地図を、トンキンを地図の左上に挿入図として融合させている。ピットはまたこの地図の他の版に出ている注釈を省略している。 珍しく風変わりな英語版は、タヴェルニエの著作が広く人気があったことを示している。

No.43
デ=ウィット, F ( DE WIT, Frederick ) 

「「...日本、中国図」 (MAGNAE TARTARIAE... IAPONIAE et CHINAE Nova Descriptio) 」 
55.5×44(cm) 1680頃
【解説】: デ・ウィットのタタール地域および東アジアの精巧な銅板の地図は、北シベリアから朝鮮、中国および日本ヘと広がっている。 特に北海道(えぞ)の興味深い記述で注目に値する。1643年のデ・フリースの見本にしたがって東沿岸のみが図示されていて、スターテン島の千島諸島および会社の土地が含まれている。日本そのものはサンソン、ブリエ、カルディムに依る初期フランス地図を思い起こさせる多くの湾入のある輪郭で図示されている。 天使の子どもに支えられた装飾的な垂れ幕のタイトル渦巻きは、右上に見える。 この地図は、1670年ころから1715年間にアムステルダムで出版された多数のデ・ウィット地図帳に見られ、またその後コヴェンスおよびモルティエによって、またC・ブラウンによってロンドンで発行された地図帳に見られる。この地図の多くは、いずれの場合も、表題の文字が異なって、わずかずつ異なった状態で見出される。 この版は、デ・ウィットのアムステルダム、カルヴェル通りの刻印が右下にある。 デ・フリースの重要な発見を永久に伝えるものとして、また北東航路の可能性に対しての信頼を与え続けた東アジアの重要な地図である。

No.44
サンソン, N ( SANSON, Nicolas ) 

「「7地方と66地域に分けられた日本島」 (INSULARUM IAPONIAE in VII Partes & LXVI Regna Antiqua divisae Per N Sanson) 」 
26.5×18(cm) 1680頃
【解説】: この珍しい日本地図は、様式としては1650年のブリエの地図や1652年のサンソンのほぼ同じサイズの地図に非常に類似していて、ほとんどの標準となる参照作品はこの地図の地図帳の出典を記していないが、サンソンの小型4折判地図帳の17世紀末の版から取られているように見える。キャンベルは1705年頃のものとしているが、これではあまりに時期が後ではないかと思われる。 地図そのものは、精巧に彫られ、朝鮮の東海岸、3つの主な島、および北海道の最南端を図示している。66の地域と7地方が定められている。表題は左上に垂れ幕の飾り枠の中に見える。ドイツ、日本フランス、ポルトガルの縮尺が右下に見える。 珍しいカルディムを下敷きにした変形版で、1646年見本をサンソンが使用した最後のものとなる。

No.45
デ=ウィット, F ( DE WIT, Frederick ) 

「 東インド諸島および周辺諸島図 (Orientaliora INDIARUM ORIENTALIUM cum insulis adjacentibus a Promontorio C. Comorin ad Iapan... (Title also in Dutch)) 」 
54×44(cm) 1680頃
【解説】: この東インド諸島の精巧な海図は17世紀後半のオランダ海図地図帳に多数の類似した海図が制作されたもののひとつで、オランダ東インド会社の影響力と探検の広がりを示すものである。 この地図は、デ・ウィット(1630-1706年)により、アムステルダムで出版されたもので、1675年ころ初めて出版された彼の「航海地図帳」に見られる。 この地図は、インド南部およびセイロンからオーストラリア西部および北部まで、また全ての東インド諸島、北は日本まで及ぶアジア東部の海岸の地域を図示している。地図全体は北がページの左端を基点として記されている。地図は、タスマンの北西オーストラリア沿岸に沿った2回目の航海をはじめとする西および北オーストラリアにおける初期のオランダの発見を組み入れている。日本は、1655年のブラウーマルティーニモデルによって、3つの島しか図示されていない。 海図は4艘のガリオン船の挿絵、また左下の華麗な装飾的な表題枠の装飾は、扇子を持つ貴婦人、鳥かごの唄う鳥から、阿片を吸う召し使いや東洋の商人や上級官僚までの全ての画像を組み込んでいる。 装飾的な17世紀オランダ海図。

No.46
コイレン, J ( VAN KEULEN, Johannes ) 

「 (Pascaarte vande Noord Oost cust van ASIA) 」 
60×52(cm) 1681
【解説】: 1681年コイレンの「海図地図帳」に初めて発表された北東アジアの精巧な一般地図で、ノヴァヤゼムリャから日本と朝鮮に至る海岸を図示したものである。日本は1655年のマルティーニ輪郭に基づいており、湾入のある朝鮮やアジア大陸に繋がった珍しい蝦夷半島とともに図示されている。1643年のデ・フリースの海図に従って、スターテン島とそれより大きな会社の士地は、本州と北海道の北東に図示されている。 大ハーンが部下の戦士に囲まれた正装の座像と共に、素晴らしい装飾表題花枠は左下にある。 北極圏およびこれまで通過不可能であったノヴァヤゼムリャ経由でインド諸島ヘの北東航路の可能性の信頼を引き続き示している点で興味ある海図である。

No.47
タヴェルニエ, J. B ( TAVERNIER, Jean Baptiste ) 

「 日本諸島図、長崎から宮廷のある江戸まで (Delineatio Insularum Japonicarum in quibus designatur via terra marique quam sequentur Batavi ab urbe Nangasaqui ad urbem Jedo sedem Regiam...) 」 
31.5×21.5(cm) 1681
【解説】: この希少なラテン語文のタヴェルニエの日本地図は、1679年にパリ初版のタヴェルニエの「旅行記集」の、珍しい1681年ドイツ語のジュネーヴ版に見られるものである。 タヴェルニエ(1605-1689年)は、1669年に貴族の称号を受け、またパリの有力な地理製作者M・タヴェルニエの甥であるが、旅行者として有名であった。彼の記述は中東およびペルシャ湾でダイアモンド等の宝石商として従事していたことを回想している。彼はまたトンキン王国(ヴェトナム)についての記述をした最初の一人で、詳細な宮廷の儀式の記述を、魅力的に彫られた地図および版画とともに提供した。 彼の日本の記述は、訪問したことがないため、他の作家の記述に基づいたもので、地図は、幾分精巧にできてはいるが、カルディムとブリエの湾入のある輪郭を厳密に複写した。おそらくこの地図の最も面白い特徴は、オランダ人が長崎の商館から江戸ヘ向かう際たどったルートについての記述であり、そのルートに沿って様々な土地と特徴の詳細な注釈がある。

No.48
タヴェルニエ, J. B ( TAVERNIER, Jean Baptiste ) 

「 日本諸島の海図 (CHARTE DER IAPONISCHEN INSELN...) 」 
31×21(cm) 1681
【解説】: この風変わりな地図は、1681年にドイツのニュルンベルクで出版されたタヴェルニエ「旅行記集」ドイツ語版の小型2折判に現われた。 タヴェルニエ(1605-1689年)は、1669年に貴族の称号を受け、またパリの有力な地理製作者M・タヴェルニエの甥であるが、有名な旅行者であった。彼の記述には、中東およびペルシャ湾でダイアモンド等の宝石販売に従事していたことを回想している。彼はまたトンキン王国(ヴェトナム)についての記述をした最初の一人で、詳細な宮廷の儀式の記述を、魅力的に彫られた地図および版画とともに提供した。 彼の日本の記述は、訪問したことがなかったので、他の作家の記述に基づいたもので、地図は、幾分より精巧にできてはいるが、カルディムとブリエのでこぼこのある輪郭を厳密に複写した。おそらくこの地図の最も面白い特徴は、オランダ人が長崎の商館から江戸ヘ向かう際たどったルートについての記述であり、そのルートに沿ってタヴェルニエの様々な士地と特徴の詳細な注釈がある。 多数の標準的文献や地図製作の参照文献にも記録されていない、この地図の珍しいドイツ語版である。

No.49
マレ, A. M ( MALLET, Alain Manesson ) 

「 日本諸島 (ISLES DU JAPON) 」 
10×14(cm) 1683
【解説】: マレの「世界誌」に出てくる精巧なフランスのミニアチュア地図で、これは地図と世界中全ての地方の版画を合体させた珍しいミニアチュアの世界地図帳である。この地図帳は最初に1683年にパリで出たが、その後ドイツ語版が引き続き出された。 地図そのものはマルティーニとサンソンの輪郭を踏襲しているが、諸島の形は多少以前のものより丸みを帯びている。地図は3つの主な島と「蝦夷地」の南端を図示している。主要な町と都市は、地域の区切りなしに描かれている。魅力的な表題は二人のトランペットを吹く天使の子どもによって支えられた引き幕様式の旗の形として、中央下に見える。

No.50
サンソン, N ( SANSON, Nicolas ) 

「 日本諸島 (LES ISLES DU JAPON) 」 
24×18.5(cm) 1683
【解説】: サンソン作品の後期の見本で、初版は1683年にパリで「新詳細アジア地図」と題したサンソンの小型4折判地図帳に出版された。 この地図は、はなはだしくいりくんだ海岸線のカルディムの1646年の日本地図を厳密に踏襲したサンソンの1650、1652年の地図とは、輪郭が非常に異なっている。 この地図は、A・デウィンターによって新たに彫られたがヤンソン、1652/59年の影響力のある地図の輪郭を踏襲している。明らかに島として図示された珍妙で珍しい三角形の朝鮮を借用しているが、しかし興味深いことに、北海道の輪郭は組み込んでいない。本州の北の陸地は「イエッソ、イェゾ、またはセッショ島または陸地」とされて、朝鮮から松花江の海峡まで広がっている。 この地図のオランダ語版は1683年にも出版されており、さらにハルマの1700年の地図帳に至るまで版を重ねている。この地図はまたクロッペンバークのメルカトール-ホンディウス複合版「小型地図帳」のH・デュ・ソーゼットの最終版のなかに変更無しに出ている。この地図帳は、17世紀になお利用可能な地図帳の小型の図版とサンソンのより最新の地図を組み合わせたものである。「携帯地図帳」と題したこの地図帳は1734-38年に出版された。

No.51
サンソン, N ( SANSON, Nicolas ) 

「 日本諸島 (DE EYLANDEN VAN JAPAN) 」 
24×18.5(cm) 1683
【解説】: この魅力的な日本諸島の8折判地図は、1652年に初めて出版されたサンソンの重要なアジア地図帳のオランダ文の版として発行されている。 日本地図は1683年版の地図帳のために、デウィンターによって再刻されたが、これはその後1683年ユトレヒトでJ・リビリスによって出版されたオランダ語版「サンソン氏による世界地理および歴史」と題したものに、それ以降複写された。これとは別の版が、1700年アムステルダムで、F・ハルマの3巻本「一般世界誌」に引き続いて刊行されたが、おそらくこれが最も有名で、キャンベルはこの3巻本を、この地図の最初の版だと誤って判定している。 諸島の輪郭は、その多くをデ・フリースの1643年の探査に基づいたヤンソンの1659年の海図から引用している。それにもかかわらず、朝鮮はもっとずんぐりとした三角形の島として図示されている。本州と朝鮮の北にある全ての島は「イエッソ、ユエゾ、またはセッショ」とされているが、いまだそれが島か半島かは不確かであった。北海道の南部の非常に正確な輪郭を示したデ・フリースの輪郭とは少しも類似したととろがない。 この地図は、カルディムのはなはだしい鋸歯状の輪郭の諸島から多くを引用した輪郭であった、サンソンのそれ以前の1650、1652、1679年の地図とは興味ある対照をみせている。

No.52
コロネリ, V ( CORONELLI, Vincenzo ) 

「 イタリア地図の最も装飾的なものの一つ 日本諸島と朝鮮半島図 (One of the most decorative of Italian maps ISOLA DEL GIAPONE E PENINSOLA DI COREA...) 」 
61×45.5(cm) 1692
【解説】: 17世紀末期の日本の最も魅力的な地図のひとつで、ヴェニス総督の地図製作者であったコロネリは、この地図を1692年、「世界地誌」のために作成した。これはまたコロネリのもっと良く知られている「ヴェネト州地図帳」にも見られる。 地図は、ほとんど正確にマルティーニ(1655年)の地図製作を踏襲しているが、湾入のある朝鮮南部と北海道を付け加え、北海道はコルネリによってアジアのタタール地方の一部にされている。中央の花冠に編まれた花の装飾的な楕円形の花枠には、地図をイエズス会のフォンテーヌ神父へ献呈しており、イエズス会教団のIHS十字架はその献辞の上に描かれている。こぎ手付き大型の平底荷船はモンタヌスから複写されているが、朝鮮と日本諸島のあいだの海に浮かべられ、コロネリは、この船と大坂から長崎まで航路の距離について詳細な注記をしている。 17世紀末期の非常に熟練したかつ華々しいイタリア地図製作者の一人による華麗な装飾的な地図である。

No.53
ミュラー, J. U ( MULLER, Johann Ulrich ) 

「 (日本諸島)およびモルッカ諸島 (Insulae MOLUCCAE) の記述 ((Niphon Ins) with text of Insulae MOLUCCAE) 」 
7.5×6.5(cm) 1692
【解説】: このまれな日本のミニアチュア地図は、デュヴァルのミニアチュア地図帳「世界地理」(仏)のドイツ語の複写で、「世界地理」と題して1692年ドイツのウルムで最初に出版された。 デュヴァルの地図と同じように、ミュラーはカルディムとブリエの湾入のある同じ輪郭を使用している。地図は、文章のページの中に挿入され、通常は同じページの地図の記述をしているが、このページの文章はモルッカ諸島の記述である。 この地図はミュラーによって、多くの異なった判型に、文章の異なった設定で出版された。また文章なしの版も、ドイツの地図製作者ボデネールによって記録されている。 非常に珍しいミニアチュアの作品である。

No.54
ヤンソン, J ― シェンク & ヴァルク ( JANSSON, J. - SCHENK & VALK ) 

「 新詳細日本国蝦夷 (NOVA ET ACCURATA IAPONIAE TERRAE ESONIS...) 」 
55×45.5(cm) (1652)1700
【解説】: 17世紀の日本の西洋の地図製作歴史上重要な地図で、イェゾ(北海道)および北方諸島の最も正確な海岸線の描写を提供するもので、ヤンソンの海図は1643年のデ・フリースの探査を、初めて印刷された形として提供した。 このヤンソンの地図帳の銅板版型は、P・シェンクとG・ヴァルクのオランダ印刷会社が1694年に入手した。この地図は、その後およそ18世紀終わり頃まで、刻印以外は、変更を加えず再発行された。デ・フリースの調査は18世紀末、ラ・ペルーズがその調査に際して使用して、その結果、デ・フリースの探検が引き起こした不正確さや誤った考察のいくつかは、とりわけ、千島諸島の長さと、いわゆる「会社の土地」については、やっと終止符が打たれた。 ヤンソンの重要な海図の珍しい再発行である。

No.55
デュ=フェール, N ( DE FER, Nicolas ) 

「 アジア東部...日本 日本およびアジア東部図 (LA PARTIE ORIENTALE DE L'ASIE... DU JAPON) 」 
33×23(cm) 1703
【解説】: デュ・フェール(1646-1720年)の18世紀初頭の魅力的な長方形の4折判「(奇妙な)地図帳」の版で、1700年から1705年の間に初めてパリで、年間6回に分けて発行された版のなかに発表された珍しい地図である。この地図は1703年に発行された第4部に出ている。 この地図は、C・インセリンにより彫られたもので、アジアの東部海岸を広東や台湾から北海道まで描き、北海道は本州の北に、非常に変わったアジアの半島として図示されている。日本は17世紀末のサンソンの輪郭により図示されている。この地図は興味深いまたおもしろい注釈がたくさん書込まれている。 表題は右下の質素な楕円形の枠に収まっている。この地図はデュ・フェールが極東のこの地域に焦点を当てた唯一の地図である。 この地図は、後の版には細部は変更されないが日付が1705年と変えられて出ている

No.56
デュ=フェール, N ( DE FER, Nicolas ) 

「 日本およびアジア東部図 (LA PARTIE ORIENTALE DE L'ASIE... DU JAPON) 」 
33×23(cm) (1703)1705
【解説】: この地図は、デュ・フェールの極東の地図である「(奇妙な)地図帳」 1705年の第2版である。 題の日付を別としても、これは1703年版から変更されていないと思われる。 この地図のこの版は、後の多数の引き続く地図帳の版に使用され、ノルデンスキョルドは1725年版の地図帳をこの1705年刻印のものとして記録している。

NO.57
プサルマナツァー, G ( PSALMANAZAR, George ) 

「 最も優れた東洋の捏造ばなしから生まれた地図である。 日本地図 (A map from one of the finest Oriental hoax stories CARTE DU JAPON) 」 
31×19(cm) 1705
【解説】: プサルマナツァーの話は、おそらく17世紀末および18世紀初めの最大の捏造話の一つであろう。プサルマナツァーは、デ・ロデズ??という名のフランス人で、オランダのイギリス連隊の従軍牧師の眼鏡にかなった出世を求める放浪の兵士であった。二人は共謀して、どの時代にも劣らぬ最大級の捏造話を作りあげた。プサルマナツァーは、東洋風の衣装をまとい台湾人になりすまし、同時代の学者を混乱させた奇妙な台湾のアルファベットを作りだした。プサルマナツァーはロンドンへ赴き、ロンドン主教をはじめ大勢の貴族の庇護下に知名度を高め、まんまとオックスフォード大学で職につくこととなり、プサルマナツァーの風変りの台湾語は、大学の学者による解明が望まれた。それが欺瞞であることが発見されるまでは、プサルマナツァーの本は版を重ねた。書のほとんどのデータは、カンディディウスやヴァレニウス等の昔のヨーロッパ人の日本の記述から引用されていた。 地図は基本的には、日本の3つの主な島と、朝鮮の南端を示したオルテリウス-テイセラによる諸島の輪郭である。南には、潤色のため憶測による詳細と共に琉球諸島と台湾が図示されている。 魅惑的でまた非常に珍しい地図で、この地図はプサルマナツァーの希少な1705年オランダ語版に発表されている。

No.58
ファン=デア=アー, P ( VAN DER AA, Pieter ) 

「 安針さんことウィル・アダムズを記念して 東および西インド旅行記集 ウィリアム・アダムスの2通の手紙 (Will Adams, Anjin-san rcommemorated WILLIAM ADAMS Reystogt na OOST-INDIEN avontuurlyle door de Straat Mageilaan in't Keyserryk van JAPAN Voleyndigt.) 」 
29×22(cm) 1707
【解説】: ファン・デア・アーの魅力的な18世紀初頭の地図は、アダムズが初めてイギリス人として日本上陸したほぼ一世紀を記念したものである。アダムズはオランダ船「リーフデ」号の水先案内人で、ホーン岬を乗り越えた後、1600年4月南九州の海岸に上陸した。アダムズは後に将軍の大きな引き立てを得て、その側近の1員として認められ、貴族に任じられた。アダムズは彼が日本で死去する1620年までのオランダやイギリスの商人の到来、またキリシタンの迫害をも見届けた。 ファン・デア・アーの地図は、朝鮮は島で、日本はマルティーニの見本によっており、大きなエゾ地は東アジアの一部として示されている。右下の魅力的な楕円形の花形枠の表題は2艘のオランダ船「フープ」号と「リーフデ」号が多分南アメリカの沿岸に停泊し、アダムズが将軍の城でもてなされている様子が魅力的な葡萄模様とともに描かれている。 この地図はファン・デア・アーの1707年ライデンで出版された28巻の「東および西インド旅行記集」の網羅的な初期航海の収集に初めて見ることができる。これは地図帳の形でも出ており、またこの地図の版は別に彫られたフランス語の副題のついた装飾的な外枠で囲まれたものも知られている。

No.59
アッフェルデン, F ( AEFFERDEN, Francisco de ) 

「 フィリッピン諸島、モルッカ諸島図に組み込まれた日本図 (LAS ISLAS DE JAPON... LAS ISLAS PHILIPPINAS, MOLUCAS Y de LA SONDA) 」 
16.5×14(cm) 1709
【解説】: フィリッピン諸島と共に、挿入された珍しい日本地図は、ベルギー人地図製作者アッフェルデンの1709年の「簡略地図帳」に、スペイン語の文章つきで、初めて発表された。その後、1711年、1721年、1725年の版にも出ている。 この地図はフランス語にも翻訳されており、デュ・フェールの1717年の「地理学入門手引き」やその他の地理書をはじめとする、この時代の数々のフランス語地図帳にも編入されている。1739年リヨンでF・ジュスティニアニ出版のフランス文つきでも「簡略地図帳」の版は記録され、このコレクションに出ている。 小さく挿入された日本地図(8×6cm)はマレの1683年の、3つの主な島がずんぐりした丸みのある輪郭で描かれたミニアチュア地図に非常に似ている。 18世紀の興味ある珍しい地図である。

No.60
アッフェルデン, F ( AEFFERDEN, Francisco de ) 

「 日本諸島...フィリッピン諸島、モルッカ諸島、およびスンダ列島 (LES ISLES DU JAPON... LES ISLES PHILIPPINES, MOLUCQUES et de LA SONDE) 」 
16.5×14(cm) 1709
【解説】: フィリッピン諸島と共に、挿入された珍しい日本地図は、アッフェルデンの1709年の「簡略地図帳」に、スペイン語の文章つきで初めて発表された。 この地図は、デュ・フェールの1717年の「地理学入門手引き」やその他の地理書をはじめとするこの時代の数々のフランス語地図帳にも編纂されている。後に1739年フランスのリヨンでF・ジュスティニアニ出版のフランス文つきの地図と一緒に出版された、この地図の出典である「簡略地図帳」の版もその一つである。 小さく挿入された日本地図(8×6cm)はマレの1683年の、3つの主な島がずんぐりした丸みのある輪郭で描かれたミニアチュア地図に非常に似ている。 希少かつほとんど知られていない地図である。