西洋の日本観

その2 解説

 日本についてのヨーロッパ人の最も初期の知識は、マルコ・ポー口の『東方見聞録』でした。「黄金の国ジパング」という、なかば幻想ともいうべき記述を含むこの著作が最初に印刷されたのは1477年、十六世紀を通じて幾度も再版されていますが、十九世紀に至ってより詳細な研究が試みられるようになります。

 しかしマルコ・ポー口は日本を訪れたことがあるわけではありません。実際の見聞にもとづく記録をヨーロッパに与えたのは、ザヴィエルを先駆とするイエズス会の宣教師たちです。世俗の権力のみならず、神の栄光に満たされた世界の構築を図ろうとするカトリック教会にとっても、あらたな地理的発見は刺激的なものでした。ローマ教会はポルトガルとスペインの国力を利用し、両国に植民地開発のさまざまな便宜を与える一方、布教事業を推進することを義務づけています。そしてここに登場したのが1534年に創設された修道会、イエズス会です。護教精神にみちたイエズス会士は、騎士道的な果敢さとともに東洋の布教に邁進することになりますが、その先鞭をつけたのがフランチェスコ・ザヴィエルです。ポルトガルが送ったザヴィエルは1549年鹿児島に上陸、こののちのキリシタン時代はイエズス会がつねに主導的な役割を保っています。

 イエズス会の創設者イグナティウス・デ・ロヨラは会員相互の情報交換を重視し、ここからイエズス会独自の緻密な情報網が形成されていきました。日本に到着したザヴィエルをはじめとして、各宣教師がおびただしい数の報告を作成し、これらは手稿本のかたちで日本からローマヘ発送され、その一部はかの地で印刷・公刊されています。(機密性の高い報告書は手稿のまま保管されました。)出版された報告書は、実際の執筆から刊行まで数年を隔てていたにも関らず、日本に関する唯一の情報源として、イエズス会あるいはカトリックに限らず広く読者の需要を満たしました。

 この一方で、日本語を話すことが出来ない宣教師たちのあいだでは、日本・日本人観の不統一が甚だしく、さらに布教の実績を誇張・美化した報告と実情とには大きな隔たりが産み出されていました。そのため1579年日本巡察師として赴任したアレッサンドロ・ヴァリニャー二は、報告を統一し、各地からの書簡を纏めあげた年次報告書をローマのイエズス会総長に送ることに制度化します。

 日本からの宣教師の情報は実に大量でした。出版された「日本書簡」は、ほかのアジア諸国の宣教報告とくらべても質量ともに群をぬくものであり、その一因はフロイスのように文才に優れた人物が派遣されたことにもありましょうが、またこの小さな島国に見出された高度に発展した文化が、いかにヨーロッパ人の関心の的となったかを如実に示しています。

 公刊された報告書は多くが小型の版型で、際立った特徴の乏しい実用的な書物として印刷されています。劣悪な用紙や、ときには粗雑な印刷などは、現在でも速報性を旨とする印刷文献の特徴といえましょう。定期刊行物や、ジャーナリズムがうまれるのはまだ先のことながら、ここに先駆的な形態を看取することは可能です。

 (以下の文献で、邦訳のある著作はその旨記載しましたが、翻訳原本は展示の版とは限りません。また現存する翻訳を網羅してはいないことをあらかじめお断りしておきます。)